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本日の一冊
" ホンダジェット " 〜 流石の『夢と創造』の実現!
*TAO LABより
ここのところ、国内では"失われた30年"といわれている時期に日本語脳発世界に一石を投じたまざまな "コンテンツ" 〜 ハードとしては任天堂やプレイステーション、ソフトとしてはポケモンやアニメマンガ...どれもまさしく日本語脳ならではのソウゾウです。
それらの物語を掘ると共に、あらためて松下幸之助さん、井深大さん、本田宗一郎さん等々の生き様と事業を追っかけておりました。
幕末から160年戦後80年、危機感まるっきりないですが、きっと戦後の焼け野原からの再出発=原点回帰をあらためて意識することが必要な時なのだと思います。
先日、ソニーとホンダが組み、あらたなイノベーションを興す会社=車、紹介いたしました。
で、今回はこちらをやはり紹介する必要あると思い、ネットや書籍で調べてみました。
1986年の開発スタートから、30年の時をかけ、2015年に量産体制を整え、米国連邦航空局より型式証明を取得して販売を開始した「HondaJet」です。
1986年から開発スタートとなっていますが、もともと本田宗一郎にとって、飛行機を飛ばすことが夢でした。幼少期に来日した米国の曲芸飛行士アート・スミスの妙技に魅せられたのが、きっかけだったと伝えられています。
その後、車の修理から部品を造るようになり、その後、エンジン付き自転車→二輪→四輪へと会社は脱皮していきます。
現在の世界のホンダになるきっかけは50年代から挑戦し始めたレースです。当初は二輪からでしたがその後、4輪レースへ。どちらも世界一になるという快挙を成し遂げています。
そんな、世界に羽ばたくきっかけになった時期、もう一つの夢、飛行機造りに挑戦します。
「国産軽飛行機 設計を募集」。1962年1月、ホンダはこんな新聞広告を掲載しました。宗一郎は社内報で「いよいよ私どもの会社でも軽飛行機を開発しようと思っております」と語ってもいます。ただし、この時の飛行機事業への参入は時期尚早でした...でも、この広告を見て、入社したエンジニアたちが後のF1での躍進やその後の経営陣としてもホンダを支えていきます。
どちらも興味深い書籍でした。
創業者の本田宗一郎が相棒の藤沢武夫とともに経営陣か取締役最高顧問へと移ったのが1973年...1983年には取締役も退きます。
余談ですが、ホンダもソニーも世襲制を取らないというのはユニークですね、当時の日本においては。
その3年後に本田宗一郎さんに内緒で飛行機開発が始まります。当時の社長は久米是志さん。
その後、1990年から川本信彦さん。この時期ホンダは低迷し、本来なら飛行機事業から撤退ということも十分考えられましたが、当時の経営陣は先の飛行機設計に夢を抱き入社した方々が多く、このあたり、「夢と創造」が「事業経営」を超えております。
前にお伝えした本田宗一郎さんのこの言葉「頭は使わないと常識的になってしまう。頭を使って不常識に考えろ」〜本田宗一郎の魂はこの会社で生きております。
それからさらに20年...その間と今に至る物語、熱く、」また励まされます、上記の書籍、一読、オススメいたします。
さて、HondaJetの新しい機種のライトジェット機市場に投入するホンダジェット・エシュロンのテスト機の製造が始まりました。まずは試験機を造り2026年に初飛行をおこない 2028年には型式証明を取得するという計画です。
HondaJetを展開している会社...ホンダの子会社ではありますが、残念ながらアメリカの会社「ホンダ エアクラフト カンパニー(HACI)」です。
でもこの「夢と創造」はたしかに日本語脳からしか生まれない、日本の飛行機だと思います。