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LAB LETTER
その節は〜ありがとうございます:)、本田宗一郎さんのことば。
「人生は『見たり』『聞いたり』『試したり』の三つの知恵でまとまっているが、その中で一番大切なのは『試したり』であると思う」
「人は座ったり、寝たりしている分には、倒れることはないが、何かやろうとして立ったり、歩いたり、駆け出したりすれば、石につまづいてひっくり返ったりすることもある。例え、膝小僧をすりむいても、少なくとも前進である。失敗するのが怖いんだったら、仕事をしないのが一番だ」
「新しい大きな仕事の成功のカゲには、研究と努力の過程で、九九%の失敗が積重ねられている」
「失敗の理由をいくら考えても意味はない。次にどうすればよいのかを考えろ」
「頭は使わないと常識的になってしまう。頭を使って不常識に考えろ」
By 本田宗一郎
*TAO LABより
ここのところ松下幸之助さん、井深大さん、とともに本田宗一郎さん、あらためて触れあう日々が続いてます。豪快にシゴトをした三人ですが、思いっきり遊んだのは本田宗一郎さんが一番かと〜この写真のポーズと笑顔みても判りますよね〜憎めない出鱈目振りが:)
彼や相棒の藤沢武夫さん、ホンダに関する著作はその昔、たくさん読みました。最近、あらためて読んだりしています。新鮮です。
で、今回はこのタイミングで、下記、本田さんとの思い出(もちろんお目にかかったことないので、一方的な体験)を記録いたします。
1998〜9年にかけ、私は一年ほど、浜松にあるホンダの工場で期間工として働いていました。
きっかけは、何度目かの人生のリセットの大波に捲かれ、仕事、家庭...金銭的にも大ピンチ、、、どうするの?オレ状態!「死んでも死なないこと」体験的に識っていましたから、「死んで楽になる」筈なく、、、そういうときはとにかく「死ぬ覚悟:)」で、なにもかもすべて「自己責任」「自業自得」、無条件にまずは受け入れること...
それが一番キツいですが、内側での「不安」と「後悔」のグルグル、外側に「原因」や「答え」探しに囚われるとヤバいです。「溺れた時」はジタバタもがかないこと、「しゃぁない」と潔く諦めるということです:)これ、今も生きていられる、学んだ対応策です。
「受け入れられる」と、これもなんども結果、体験していることですが、「天」通して「外」からなんらかのお助けが届きます。
これは「結果」としてこうなるので自ら興すことは出来ません。また、次回も必ずそうなるとも判りません。
当時、妻はしばらくインドへ。熱海の西山という別荘地帯(ここ、著名な方、多く)にひとりで住んでいました。
で、その時、生じた「お助け」...とはポストに入っていた新聞でした。
新聞、取っていませんでした。にも拘わらず、どういうわけか、朝刊〜朝日だったか読売だったか?どこの新聞社だったかは忘れていますが、投函されておりました。そんなこと、あります???
で、その新聞を開いたところ、目に入ったのは「ホンダ技研工業浜松工場での期間工募集」の広告。全国で面接しているらしく、沼津でも近々行われること知りました。また、それに参加するだけでいくばくかの日当が支払われ、さらに受かったら浜松までの交通費+準備金も支給とのこと。
まだ続きます〜寮が完備され、家賃、生活光熱費、食費もホンダ負担。有り難いことにある期間過ぎたらそれなりの特別手当ボーナスもつくという〜至れり尽くせりのプラン。
その時、ホント、一銭もない状態で、今思えば、そんな状態になるまで何してんだよ!お前!!と我ながら呆れてしまいますが、、、
面接行きましたよ、早速。
で、お陰さまですぐに採用通知が届き〜1週間後ぐらいには浜名湖湖畔にある寮に移動、働き始めました。熱海の住まいは即、解約申込み、その後、時間を作り、引き払いました。
寮、ボロく、相部屋と伺っていましたが、なんと、既存のそれら寮がすべて満室。急遽、バブルで潰れた研究所付随のほとんど使われなかった独身住居用施設を借りたそうで、ワンルームマンションの造り。部屋はユニットバス付き個室、冷暖房TV完備、さらに、浜名湖湖畔に建ち、リゾート感覚、眺め良しという有り難い環境をいただきました。
さらにゴハン〜三食支給なのですが、私のライフスタイルは「菜食」〜当時は「マクロビオテック」「ビーガン」でした。
寮でのゴハン、工場でのゴハン、困るので、人事部に相談したところ〜なんと、食費手当で月に5万円いただけることとなりました。ひとり自炊、ひと月、5万かからないでしょ?感謝です!
また、どういうわけか「吉原大樹」(〜当時、婿入りし、名字は吉原となっていましたが、名前の大樹は人生の大恩人のひとりからいただいた仏教ネームで、本名ではありません。)という名前でホンダでは働いていました〜なんで、そんなことが可能だったんだろう?住民票も免許証もチェックされず、不思議です。それとも、私の思い違いか?いやいや、そんなことなく。
さて、車、興味無し、イジったことありません。
でも、流石!ですね!!素人でも、何も知らなくとも、まさしく「歯車」として十分役立たせていただける仕組みが構築されており、勤務期間に3回部署が変わりましたが、高級車のエンジンを造っておりました。
ボロボロの状態でいただいたこの機会、環境〜エンジンのネジを閉める作業の時に、、、また、皆が一生懸命働いている姿を見て、三度、なんでか感極まって泣きました。嗚咽、涙、止まりませんでした。
ともに、その時、ハッキリと工場全体に本田宗一郎さんが確かに存在していると感じ、、、己の情けなさと、そんな自分を見捨てず支えてくれている目に見えるもの、視えないもの、全ての存在にお詫びと感謝を捧げたのでした。そして自らも癒されていくのでした。
その体験はその数年前に歩いた四国八十八カ所歩き遍路の時にも体験した出来事です。
長くなりました。でも、自分の整理ともなりました〜失礼いたします。
で、1年後、どうしたか?って??
借金を返し、貯めたお金を持って、ハワイに飛びました〜:)そこで待っていたものは〜?
1994年から12年間、トンデモ霊的凸凹TRIP、外にも内にも生じていたのですが、これはその一部です。
その時期、おバカで愛すべき傑作な物語が続くのですが、いつか、それも。
「見てみたいという変化に、あなた自身がなりなさい」
By マハトマ ガンジー
苦しんでいる方、お互い、顔晴りましょう〜キツいこと、受け入れられたら〜きっと大丈夫、マイフレンド:)
おまけ
超ご無沙汰しておりますが、世界を旅してる同い年のAKIRAさんのこの曲をこのタイミングで〜、彼の音に乗せた詩、暖かいかと。
最近は音楽活動より、アート活動がメインの模様ですね。