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LAB LETTER
松下幸之助と美しい景観... 『明日香村法』...奈良飛鳥〜明日香村の試み〜
*TAO LABより
「明日香法」... 正式には「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」といい、「明日香村特別措置法」とも呼ばれていますが、ご存じですか?
昨年、11月後半、素晴らしいお米を作っている知人を訪ね、この明日香村近辺に行きました。このタイミング、その前日は訪ねたかった京都にある松下幸之助資料館に行ってました。そこから大阪へ、打ち合わせをした積哲夫さんはヴァグリエというバックの会社も経営しており、そのバックは松下幸之助さん一族に愛されておりました。
さて、この歴史的に価値のあるエリア、なんとも懐かしい日本の原風景が残っている明日香村に来て初めて知ったこと...この景観とともに文化や歴史を護るためにこの法律「明日香法」があり、その法律を制定する上で松下幸之助さんが関わっていることを知りました。この旅は松下幸之助さんの精神に結果、あらためて触れる旅ともなりました。
下記、転載いたします。
『全盲の鍼灸師であった御井敬三氏...御井氏は大正6(1917)年9月生まれ、和歌山県有田郡湯浅町出身。10歳のころに失明して鍼灸師の道を歩み、大阪市で東洋医学研究所を主宰していました。大本教の熱心な信者であり、宅地開発が進む奈良県明日香村の景観を保存するよう社会に訴える活動を行なっていました。
御井さんが最初にPHP研究所を訪れたのは、昭和43(1968)年7月3日です。松下幸之助さんによれば、元々は当時松下電器副社長だった高橋荒太郎氏の知人で、紹介を受けて思想家としての見識の高さに感銘を受けたと説明しています。この日は所員の前で講話を行ないました。それがご縁で昭和43(1968)年7月15日、御井さんはPHP研究所参与に就任しています。
その後、松下幸之助さんの勧めもあって、御井さんは昭和45(1970)年1月、佐藤栄作総理大臣あてに明日香村の景観保存を訴える内容のカセットテープを作成しました。それをPHP研究所の所員がもう一度朗読して録音し直し、幸之助が知人に託して総理に聴いてもらいました。総理の心を動かした御井氏は後日、総理との面会にこぎつけています。
同年4月5日には御井氏を中心に明日香村で「飛鳥村塾」が開塾し、塾を足掛かりに「飛鳥を守る会」が結成され、作家の井上靖、大佛次郎、川端康成、司馬遼太郎、松本清張、評論家の小林秀雄、福田恒存、俳人の山口誓子、写真家の入江泰吉など各氏が参加しました。
昭和46(1971)年4月に財団法人飛鳥保存財団(現公益財団法人古都飛鳥保存財団)が設立され、幸之助が初代理事長に就任しました。御井氏はそれを見届けるかのように同年8月23日、心臓発作で死去、享年53。
翌昭和47(1972)年3月に高松塚古墳の壁画が発見され、明日香村の重要性が社会により広く認識されました...
これによりさまざまな施策が始まりましたが、比較的目につきやすい歴史的風土の保存に関する事業、すなわち史跡や観光客のための施設の整備などは予定通り実施されたのに対し、住民生活の向上に関する施策については遅れがちになり、住民からは不満の声があがりました。
これら村民の声などを受けて特別立法の制定への要望が高まり、歴史的風土審議会などの審議を経て、昭和55年(1980年)、明日香法が誕生しました。
明日香法は、古都保存法の心髄である"古き良きものを守る"ことをベースにしながらも、そのためには住民の生活のさらなる向上が不可欠という考え方を基本にしています。
明日香村のかけがえのない歴史風土を未来に向けて保存継承、創造的に創り直していくのが、明日香法の目的だといえるでしょう。』
なるほど〜高度成長時代、このような働きがあって、この景観が、風土が護られてきたのですね。
このあたり、電信柱がありませんでした。これもその結果かと。
便利という開発も必要ですが、先達の方々の思いと生き方を継承し、お金で買うことが出来ない、古き善き景観とそれを培った自然を意識して護ると言うこと、大切ですね。
この時、時間の関係もあり、ここで暮らす知人かおりさんのススメもあり、高松塚古墳ではなく、1983年に発見されたキトラ古墳訪ねました。
古代の方のほうが宇宙と繋がっていたとリアルに実感しました...進歩ってなんなんでしょうかね???