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青山堂運歩 by 川島陽一

行く 来る 生まれる

十月だというのに、未だ暑い日が続く。

先月(令和六年)叔母(私の母の妹)が心臓疾患で入院、大過なくではあったものの、心臓ペースメーカーを着装する手術を行い事なきを得、一週ほどで退院した。昨日(十月六日)快気祝いの宴を叔母、従妹夫婦と私たち夫婦で行った。今年九十三になる叔母は前よりもさらに元気であることに驚かされもするし、叔母曰く「ペースメーカーは後六年持つらしいから、九十九までは生きられる!」と、皆を笑わせる。

私の母方は七人兄弟姉妹上五人が女性で、下二人が男性。叔母を含め、下のおじ二人とも健在で、九十一、八十九である。母は富山県で生まれた後、二歳で祖父祖母と樺太へ移住する。祖父が、王子製紙の樺太工場長への栄転であったのだ。祖父は茨城県常陸大宮生まれ旧水戸藩の書生であった。祖母は笠間藩(譜代大名)の女官の孫、と聞く。祖母曰くは、「おじいちゃんは平民、わたしは士族」であったし、そそとした中にも気品と気位のある人であった。

一つ話をするならば、「おばあちゃん(祖母の)は、井伊大老の襲撃を近くで見ていた。雪に血飛沫(ちしぶき)がたいそう奇麗でだった、と言っていたんだよ」、と。(桜田門外の変は、1860年3月24日(安政七年3月3日五ッ半(午前九時)折から大雪の降る天気であった)因みに、祖母の祖母は高祖母(こうそぼ)、ということを知らべていて初めて知るけれど、高祖母は笠間藩の女官で、「笠間の殿様」と言っていたと聞く。因みに、笠間藩は徳川の譜代大名、譜代大名は江戸城の警護も兼ねているため、藩邸はお城の近くである。

樺太は、年の約八か月を氷と雪の閉ざされた土地と母から聞いて育った。
快気祝いのうたげのときにも叔母から少し聞くと、やはり、雪は横から降るらしい。吹雪、ブリザードがその訳にはふさわしい。トイレは家の外にあり、そこには、ハンマーが備わっている。固まったものを、子どももハンマーで割らなければならないある種、生活の知恵なのである。

ソ連の非道は知るところではあるが、昭和二十四年に祖父母家族はいわゆる抑留先から引き揚げ船「宗谷」で函館へとたどり着く。時に引き揚げ船は、二隻あったが、一隻は海の底へ。流氷の海を本土までオホーツク海を渡ることも半ば奇跡であったのだ。ところでこの「宗谷」は寿命の長い船であり、引き揚げ船として働いた後も、南極観測船として活躍し、昭和五十二年(1978)に退役する。

なかなか本題にたどり着かぬ話をもう少しするが、実は今日の本題は、「来る 生まれる」もう少し具体的には「行く 来る 生まれる」である。カエサル(ジュリアス・シーザー)の『来たVeni 見たVidi 勝ったVici』紀元前47年のゼラの戦いの明瞭完結な、あっという間の戦いの勝利を模しての、奇跡のお話なのだが。

奇跡の船「宗谷」でソ連の抑留から帰還した、母にまつわるさらなる、奇跡のお話をもう少しお聞きください。
母は私が三歳の頃働きに出る。父は満州戦線で精神を患い本土に帰還後都立松沢病院、東大病院などで闘病生活、体調不良が続き東京海上火災を解雇される。家の経済困窮により、母は働くことになるのだ。時代は進み、1974年8月30日の事だ。千代田区丸の内で起きた『三菱重工ビル爆破事件』である。時限爆弾が午後零時45分に炸裂する。建物内の社員と通行人が巻き込まれ死傷した。三菱重工ビルの窓は9階まで全て割れ、対面のビルなどの窓ガラスも破壊された。即死五名、入院後死亡三名、負傷者三七六名の大量殺戮事件であった。

その時刻の数分前に、その現場に母がいた。
母の仕事は、そのビルの管理会社三菱地所の清掃員だったのだ。その夜会社から帰ってきた母の話は今も覚えている。大変だったという話ではなく、「ガラスがビル街にきらきら落ちてきた。奇麗だった」、と。(何やら、高祖母の話し方に似ていないか?!)

晩年母はがんの末期であった。前後でわたしの整体を受けていた時期である。がんの発生は防げなかったが、通院先の東邦医大大橋病院では三度の緊急入院(いずれも、がんの転移による脳神経の発作で3日程度)以外には、抗がん剤の服薬なしで、痛みも発生せず、であった。(私が東邦の先生からモルヒネの使用の許可のサインをしていた)。なくなる五日前に、中野の『ジョナサン』で「ハンバーグプレート」を注文し、ライス半分とエビ1本を残し(私に、食べれないから食べてくれと)、小ジョッキものみ、幸せに旅立った、と思う(私見ながら)。
どこかに、「奇跡」はまぶされていただろうか。

さて、ようやく本題。
先ほどの叔母の孫の話である。従姉妹の娘である。快気祝いの席で、従姉妹から娘(はるちゃんといいます)の話、はる曰く、「よーちゃん(私、陽一なのです)のとこ行って、二人とも出来た!!」。という最高に、チョーうれしい話を聞かせてもらったのだ。

私たち夫婦には子どもがいない。実は、そんな二人は「保育学校」を出ているほどの大の子ども好きなのである。保育園、幼稚園はじめ、学童保育、児童館、知的障碍児者、等の従事者でもあったが、整体を始めてからもクライアントさんの子どもを預かったりしていたし、お母さんが整体をしているあいだ子どもたちと遊んだりしていた。その子も、赤ちゃんができなかったお母さんにできた子だったりする。その子たちも高校生になり、いまは、従姉妹の娘の子である。

奇跡の話をどうしても、TAO LAB BOOKS に乗せたくて回り道をしました。
と、終わりにしようと思っていたら、ぼくのお弟子さんで、都下高尾で「コキリの森」という屋号で整体を行っている、ともださんが来られて(10月31日)元気なお姿を拝見。ところがである、彼女はくも膜下出血で確か倒れてまだ三か月。この元気な姿は、幽霊?(笑)。ちょうど昨日三か月検診で全く異常なし、薬も無し、後遺症もなし。担当医から学会へ発表をさせてください、という症例らしい。
奇跡は巡る。

たびたび余談ながら彼女とのご縁は実に不可思議で、十二年前ぼくが片瀬海岸のサマリヤビル(お天気カメラのあるビルで、江の島を一望する立地)で整体をしているとき、(彼女曰く、狂ったように(笑)何回となく高尾から通われていました。)、さすがに遠方からは大変であるし、どうでしょう、勉強しませんか、とぼく。
その時、彼女はこういいました、「今生でも先生の弟子になるとは」、と。その時代ぼくはチベットの山でも二番目に高い山の高僧で、彼女はその時代は男だったそうです。ぼくが彼に、山を下り(つまり修行をすることよりも、下界に降りて暮らせ、と言ったという)なさい。普通の生活をしなさい、と言ったんだそうで、のち結婚をし子どもにも恵まれて幸せに暮らしたということでした。

この奇遇のお話はここまで。
今も彼女とぼくは、同じ整体業で、幸せにも、毎日が奇跡の連鎖で暮らしております。そういえば、彼女のお孫さんは、1か月半で、首が座ったらしい・・・。 

*TAO LABより
「奇跡も、魔法も、あるんだよ」

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とは世界観や映像等々お気に入りの『魔法少女まどか☆マギカ』=シャフト制作による日本のオリジナルテレビアニメ作品第4話のサブタイトルであり、鹿目まどかのクラスメイト、美樹さやかのセリフです。
2011年1月から4月までOAされていました。

新作が2025年冬に公開とのこと〜楽しみです:)

奇跡、奇蹟...もちろん!ありますよ!!この限りない宇宙に「わたし」が存在していることが何よりの証しかと:)

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