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青山堂運歩 by 川島陽一
深層のダイナミズム
今ある自己を越えてゆく頸部前彎整体は、瞬間瞬間に新たな姿を顕現しつづけている。
道元の時間論「有時」巻の「吾有時」という言葉が示すように、深層の無分節の真理が、自己と存在者と時へ、と分節される構造を基盤としている。
意識深層の場(それは絶対的無分節)の力が、ありとあらゆる存在者を成り立たせ、その存在者の一部としての、「自己」が、他の存在者を認識する。存在者としての「時」は、自己の今、ここ、を支えている。そして、自己と時とは、常に新たなものとなり続けていくのだ。自己が、あらゆる実体化、固定化を避けていくためには、常に今の自己を越えていかなければならない。
深層の次元では、瞬間瞬間に、常に新たに顕現されていく。
道元の言葉にもどるならば、「脱落」「脱体」「透脱」など、である。
「イネイト・インテリジェンス」は「ユニヴァーサル・インテリジェンス」となるのだ。
仏教的には、「仏性」をさらに超えて「無仏性」と移り行く、無限の修行と、それを通じた、新たな「時」が刻みだされてゆくのである。
アリストテレスは、「時」の「気づき」を、「驚嘆(タウマゼイン)」と呼ぶ。「驚嘆」は「疑問」に転じ、知的に展開していく。原因を探求し、本質を追及していくのだ。「時」は「気づき」を意味的に分節してゆく。より正確には「時」という「現実」は、われわれの意識が、言語的意味分節という第二次的操作を通じて創り出したものに過ぎないのである。
井筒が意味分節について語っている。
「分節理論については、既にいろいろな機会に、いろいろな形で述べ続けてきたので、今またここでの詳細を繰り返すつもりはない。結局、この理論の要旨は、われわれ人間の言語には、哲学的に最も重要な機能として、現実を意味的に分節していく働きがあるということーあるいは、より正確には、いわゆる「現実」、我々が普通、第一次的経験所与として受け止めている「現実」は、本当は我々の意識が、言語的意味分節という第二次的操作を通じて創り出したものにすぎない―ということである。」
(『意味分節理論と空海』岩波書店、二五〇頁)
「現実」を、私たちは普通、直接的に見ていると考える。
まず、「もの」があり、個々の「もの」が始めから独立して存在してい、それをそのまま見ている。そこに言葉があとから追いかけて、と私たちは常識的には、そう考えている。
意味分節理論は、そうではない。始めは何の区切りもない、と考えるのだ。
始めにあるのは、荘子のいわゆる「渾沌」、どこにも境界のない原体験のカオスのみ。
そうしたカオスを、言葉が、境界線を引き、区切りを入れることで、無数に区切られ、個々の「もの」へと分かれてゆく。老子の「無名」は一定の名を得るとき、始めて「もの」として生起する。つまり「もの」は言葉によって二次的に創られた、ということができる。いったん「名」を獲得すると、「もの」は、あたかも始めから自立していたかのように振る舞う。
私たちの向こう側に、客観性をおびて現象する。常識という目で見るとあたかも始めから存在していた客観的な「もの」を見ているということを、私たちは体験するのだ。
明らかに、普通。私たちはそうしたメカニズムに気づかない。言葉が現実を創る。言葉が現象的世界を意味的に喚起するのである。
アリストテレスの「気づき」にもどってみよう。
ギリシア語の「ランタノー」は「今まで気がつかなかった」という意味でつかわれる動詞。日本語と違い古代ギリシア人は「Xが私から隠れていた」という。私たち日本人ならば「私はXに気づかずにいた」なのだ。つまり「ランタノー」は何かが隠れている、隠されている状態を意味する。
ところが、その隠されていたことが一瞬にして現われる。ギリシア語はその事態を「アレーテイア」と呼ぶ。「ランタノー」(覆われている)が否定辞「ア」で否定されて、覆いが取り除かれる。そこに「真理」概念の構造が明らかになる。
「気づき」とは、ここでは、新しい客観的対象を客観的に発見することではない。
それはむしろ、意味生成の根源的な場所である意味領域、つまり、人間意識の意味生産的想像力(シャンカラのいわゆる幻力(マーヤー)、自然的事物・事象を蜃気楼のように現出させる幻想能力)の織り出すベールが私たちと自然との間を隔てていることに気づいていないことに、「気づく」ということなのである。
「夫(そ)れ道は未だ始めより封(ほう)有らず。言は未だ始めより常有らず。是が爲にして畛(しん)有るなり」
(『荘子』(斉物論篇二)
そもそも「道」(存在の窮極的リアリティー)なるものには、始めからなんの区切りもありはしない。だが、それを表す人間の言葉には、唯一絶対の意味などというものはない、という。
「道」そのもの、本来の姿における「道」は「渾沌」であり、「一」であり、「無」であって、いかなる分割線もそこにはひかれていないのであった。
「ユニヴァーサル・インテリジェンス」のユニヴァーサル・インテリジェンスたる由縁でもあったのだ。