MAGAZINEマガジン
青山堂運歩 by 川島陽一
意味可能態としてのアクスィーズ
カイロプラクティックの創始者D・D・パーマー(ダニエル・デイヴィッド・パーマー)は、首の直下あたりに、何かしらの違和感を長年感じ続け、民間治療家として、さらにはカッバーラーとしての認識概念であるところの、セフィーロート(チャクラと類似する概念)から思索を進め、治療の確立をするに至る。
その後、子息を医師として育てると、その名も有名なB・J・パーマー・バートレッド・ジョシュア(ヨシュア)・パーマーは医学としてのカイロプラクティックを確立するのだ。彼はアメリカに於いて、六年制の大學制度をたった一人の手で実現する。
その間、発明家のエジソンの協力の元レントゲンを用い頭蓋骨、頸椎第一番(アトラス)、頸椎第二番(アクスィーズ)、の三つの穴(スリーリング)を調えるという手法を開発する。世に有名な「ホールインワンテクニック」である。スリーリングを一瞬で調えると、さらに、全ての脊柱がさらに一瞬で整う、というのである。
彼の考えによれば、脊柱を調えるカイロプラクティックは、実は頭蓋骨と脊柱の内側に存在する、脳及び脊髄神経に作用する。さらに言えば、脳からの指令は、脳幹を経由して脊髄に至る末梢神経系に網羅される、という想定のもと、第二次世界大戦後のドイツに飛び、死後冷凍保存されたナチス将校たちの死体解剖により、生命を終えた直後の死体には未だ頸椎第二番にまで脳幹が存在していることを確認するのである。
余談ながら、私がこの話を生徒さんにした時、父親を直後に亡くされた彼女が、先生のお話の通りのことがありました、父の入院先の病院(埼玉県川越 帯津三敬病院)の看護師さんが、『お父様が生命を終えるときに、カタカタという音が聞こえますよ』と彼女たち家族に語った、という〜以上の話はその方ご家族と帯津三敬病院の了解を得ている。
「神は、光と闇の七万の帳(とばり)のかげに隠れている」とは、イスラームの預言者の有名な言葉だが、その意味するところはつまり、存在の本源的真相は、幾重にも重なる言葉による事物・事象のベールに覆い隠されていて、不可視、不可知である、ということである。
私たちの普通の経験世界、いわゆる「現実」が交錯し交流する光と闇の綴錦(つづれにしき)=タペストリー、この絢爛たる織り物の向こう側には、一体何があるのか。こちら側は現象的に見えているし現われているのだが、不可視の裏側「現象以前」の真相とは?
『神の詩 バガヴァド・ギーター』田中嫺玉訳の七章二五に
「"わたし"は愚者と知性低劣な者たちには見えない
彼らは"わたし"の造化力(ヨーガマーヤー)だけを見ている
無明幻象(マーヤー)の世界に住む者たちには
不生不滅 円満完全な"わたし"が見えず 理解できない」
とある。
"わたし"とは、クリシュナヴィシュヌ神(ヒンドゥー教の至高神)の第一人称である。
無明幻象(マーヤー)が惹起させる現象的事物・事象に欺かれて、わたしたち普通の人間は現象のさらに内奥、内側、それ以前を見ることができない。
わたしたちが常識的な存在了解の場で見る、いわゆる「現実」は、普遍的な存在論的構造を持っている。世界は始めから一定の形で分けられた秩序を持ち現前している、と、見るのだ。すべてのものは「名」を持ち、その「名」が呼び起こす「本質」を通じて、他の一切から自らを区別する。
「夫(そ)れ道は未だ始めより封(ほう)有らず。道は未だ始めより常有らず。是が爲にして畛(しん)有るなり」
-『荘子』斉物論篇三-
そもそも「道」なるものには、唯一絶対の意味などというものはない。だからこそ「道は隠れて名無し」(道隠無名)と老子はいうのだ。
-『老子』下、四一-
荘子は「名」の「本質」固定的機能の功罪を尖鋭に意識する。
「夫(そ)れ言(げん)は吹(すい)に非(あ)らざるなり。言には言うところ有り。其の言う所の者、特(ひと)り未だ定まらざれば、果たして言あるか、其れ未だ嘗(かつ)て言有らざるか」
-斉物論篇二-と彼は言う。
言葉は吹く風の音のようなものではない。しかし言葉に意味があるとはいっても、それが定着せずに、意味が浮き沈みしているような場合には、たとえものを言ったとしても、何も言わなかったことと同じことになってしまうだろう。だからこそ、真に言葉の名に値するものは一定した意味をもっていなければならない、というような意味である。
しかし、万物斉一という荘子の哲学は、「言わざれば則(すな)ち斉(ひと)し、斉しきと言(げん)とは斉しからず。言と斉しきとは斉しからざるなり。故に曰く、言無し」と
-『荘子』雑篇、「寓言」二七-
無言のままであれば、すべての物は無差別であって「道」の根源的斉一性は保たれるのだけれど、その斉一の事実と「斉(ひと)しい」という言葉とは、一致しないのだ。言葉で「斉しい」と言ったとたんに、斉しいものは、斉しくないものになってしまうのだ、と。
絶対から相対への移行を意味する。だからこそ、古えのひとも「無言」であることを勤めたのである、と荘子は力説しているし、彼の思想をよく表している。無明幻象(マーヤー)に欺かれているのである。
いずれにもせよ、カッバーラーを端緒として、空海、インド哲学、イスラーム神秘主義、老荘思想をじかに触れ合わせることは、根源的には、異なる意味マンダラの接触であり、かぎりない柔軟性と可塑性を持っている。テクストの織りなおしの機会を、暗闇の中わたしは模索を繰り広げている。
それほどまでに、アクスィーズ=頸椎第二番・のど仏・仏の坐とは、魅力的で蠱惑的な存在なのである。
*TAO LABより
アクスィーズ補足
軸、軸線、地軸、(ものの)中心線、(運動・発展などの)主軸、中枢、枢軸。
この場合は頸椎第二番=のど仏=仏の坐のことです。