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HOLY LIGHT

LOVE&SERVE マートルヴァーニ日本版 2008-9 VOL5 から 『光の言の葉』抜粋引用

あらためてこのアンマの冊子「マートルヴァー二」再読しています。
Vol4に続きVOL5より。
なお、個人的な感想はそれぞれのリンクに、また、そこのコメント欄にも〜ご興味ある方は飛んでご笑覧ください。

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2008-06-VOL5-NO1
『皆さんにぜひ考えていただきたいことがらを、ここで何点かお伝えしたいと思います。

1.地上から人類が駆除されたと想像しましょう。
この惑星は再び草木に覆われるでしょう。水は再び清浄になるでしょう、大気もまた澄んでくるでしょう。
すべての自然が喜びに満でしょう。
逆に地上の生命が人間だけだったらと想像してみてください。
人間は生き残れないでしょう。
カミに創造されたこの地球と自然から生まれる歌は完全に調和した旋律とリズムです。はずれた音を立てるのは人間だけです。

2.平和と愛の源は愛と慈しみです。
愛を通して、私たちの心にあるあどけない蕾は花開きます。すると愛のすばらしい芳香があたり一面に広がっていきます。

3.社会という鳥にも二つの翼がついています。
科学と霊性です。この二つは手を取り合ってすすまなくてはなりません。双方が社会の進歩のために必要です。
私たちが霊性の価値観を固持して前進するなら、科学は世界に平和と調和をもたらす道具となるでしょう。』 
...以下続く。

-シネマヴェリテ賞自称スピーチ「慈しみ、平和に向かう唯一の道」より-
『*サナータナ・ダルマによると創造者と非創造物は二つではありません。
海と波も二つではありません。海は水で、波も水です。

金のイヤリングと首飾りがありますがこれも同じようにイヤリングにも首飾りにも金があります。
カミは空の向こうに座っているのではなく、すべての存在にいます。すべてにカミがいて、カミでないものは何一つありません。
サナータナ・ダルマではこのように教えています。
つまり、すべての存在を愛し、それに仕える人はカミを礼拝していることに外なりません。

インドでは小鳥を祀る寺院、水の寺院、ヤモリの寺院、その他を祀る寺院があります。
すべてにおいて、愛は礼拝に変わります。

布自体は10ルピー程度の価値であっても、旗につばをはいたらどうなりますか?そんなことをしたら、私たちは誰かに殺されるかもしれません。その人はその旗に、なにかの理想をかさねているからです。
このときに愛は礼拝に変わっています。このような変容はごく自然にやってきます。
もし自分が愛している人から何かをもらったら、私たちはそれを大切に取っておきます。
誰かがそれを踏んだりしたら、私たちはきっと怒るでしょう。

同じ理由でサナータナ・ダルマではすべてを愛しなさいと伝えます。
それで先祖は山や川や鳥、獣も礼拝したのです。
そんなことをする人は原始的で愚かであるという人びともいます。

しかしながら、動物や木など、自然の一部であるものを守っていくのは、今や時代の走りともなりました。
サナータナ・ダルマではすべてにカミを観、すべてを愛し、すべてに仕えるという原理を教えています。』
...以下続く。
-「バクティ」より-

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*2008-09-VOL5-NO2
『彼らがあのようにしゃべったり、振る舞うのは彼らの間違った判断によるものです。かれらは霊的な生活の意義や意図が理解出来ないのです。
ですから彼らを怒ったり、嫌ったりすることなど出来ません。

このような行為は私たちの無知から来ているんであって、単に自分の心が汚れているだけです。
ここに咲く、瑞々しいバラを観てごらんなさい。なんと美しくかぐわしい香りでしょう!

でもこの花を育てるために私たちなにを用いますか?使ったお茶っぱと牛の糞です!美しいバラと肥やしの違いはなんと大きいことでしょう!
それぞれの美しさと匂いを比べてみてください。この肥やしは相応しいのでしょうか?

同様に障害は私たちの霊性をより高めてくれる働きがあります。それは肥やしなのです。』
-「マータ・アムリタナンダマイの伝記」 P173 より-

で、別のページに書かれていたこのアンマの言葉を今回も加えます。

『愛が私の子どもたちのすべての言葉、まなざし、行いを満たしますように。
私の子どもたちが世界を照らす光となりますように。
カミの恩寵に誰もが恵まれますように。』

-バクティ〜生きる原理」より-

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*2008-12-VOL5-NO3
『エクナートという名のたいそう特別なアメリカ人の帰依者がいます。
彼は次の三点によってかなり有名です〜自分の腕時計を逐次確認する、笑ってと人に言う、バッジャンの調子に合わせて飛び跳ねる〜〜〜
いやもっと正しく言うならば、彼が有名なのはその無邪気さによっています。
彼の無邪気さがダンス、笑うこと、時計を確認することを含め、すべての彼の行為を通して輝いてます。これこそが、誰をも彼に引きつけるのです。これこそが、彼を観た誰もを喜びで一杯にするのです。

アンマが言うようにー
「無邪気さはそれは打 美しく、心を引きつけるものです。アンマは無邪気さのあるところに流れていきます。」

今年、アイオワでの第一夜が終わろうというところ、スワミ・ラーマクリシュナーナンダが「マヒシャースラ・マルディ二・ストートラム」を歌っていました。ほとんどの方はこの歌をご存じでしょう。とても力強く、テンポもかなり速くなります
それでエクナートは歌に合わせるために、それこそ、必至に飛び跳ねていました。彼はアンマから20フィートほどだったでしょう。アンマはダルシャンを与えながら、彼に目をやり続けていました。歌が終わったとき、アンマが彼を自分のところへ呼びました。
エクナートは知能障害がありますが、だからといってアンマとの深いつながりがないとうことを意味してはいません。これに続くアンマとの会話が、それをある程度明らかにしています。

「むすこ、どの歌が好き?」アンマは尋ねました。
彼はバジャンの「マーター・ラニ』だと言いました。
「どういうところが?」アンマは聴きました・
「大好きだからです」
ここでエクナートは何ともなしにあることを聞きました。
「ボクの家に来ませんか?」
するとアンマは彼の胸を指して、英語で言いました。
「この家ね。」
エクナートはここで周りの皆に叫びました。
「アンマはボクの心にいるんだ!」
アンマは優しく微笑んで、この青年に聞きました。
「アンマがキミの心にいるというとき、アンマは何を言ってるのでしょう?」
間髪を入れずに青年は答えました。
「こうさせるため」
そしてエクボを両手の人差し指で押して、笑ってみせました。

「アンマはボクの心にいる」ーこれを理解することが、霊性のすべてです。私たちが会得するべき叡智です。
子どもの無邪気さを持つなら、私たちは巻単位その高みに昇っていけます。
子どもは素晴らしい教えを私たちにしめしてくれます。
美しく、正直で、しかも自然です。
彼らに気をつけているなら、多くの方法で私たちのき教師として働いてくれるのです。

よく居るような精神科医を取り上げてみましょう。その人のことを心にあがいてみてください。
診察室にいるところとか家族と一緒のところとか。車を運転しているところでも。
出来ましたか?
では、子どもを思い浮かべましょう。
食べているとき、遊んでいるとき、公園を歩いているとき...子どもと精神科医、どちらがより幸せでしょう?
このように観てみたとき、幸せについて、どちらからアドバイスをもらいたいと思うでしょう?...』


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*2009-03-VOL5-NO4
『カミが偏在しているのなら、寺院の必要性はどこにありますか?』

『サナータナ・ダルマの特徴の一つは、個々の背丈にまで降りて、そこから其の人を引き上げることです。
人びとは違ったサムスカーラをもっています。ですから当人の気質に従った指導が行われなくてはいけません。
特定の注射にアレルギーを起こすので、別の処方を受けるべき患者がいます。

同じように、個々人に固有の精神的、身体的な特質が考慮され、本院のサムスカーラにあった適切な方法が与えられなくてはなりません。
これが、様々な違った伝統が創造されたゆえんです。

献身の道、無私の行為の道、形ある、または形のないカミへの礼拝、これらの道はすべてはこのようにして発展しました。
けれでも彼らは同じ基板を共有しています。それは永遠なるものと儚いものの峻別です。
アルチャナ、献身の歌、礼拝儀式の目的は同じです。

目の不自由な子どもは触覚を通じてアルファベットを教わります。耳の不自由な子どもは手話によって教わります。誰もが自分の理解の次元に会あわせて導かれなければなりません。
神性を物質的な次元に降ろしてから普通の人たちを引き上げるために、寺院は必要です。どんな人であろうと無私したり、拒絶したりするわけにはいきませんから。
空気は至るところにありますが、扇風機のそばではもっともはっきりと感じ取れませんか?木の下では他では味わえない特別な涼しさがあり、、そこであなたは風邪が吹き抜けるのを感じ、涼を得ます。
同じように、カミを象徴している手段を通じてカミを礼拝すると、聖なる存在がよりはっきりと感じられます。

太陽は至るところに輝きますが、カーテンやシャッターを閉じられている部屋では、光を得るのにランプのスイッチを入れなくてはなりません。
牛は乳をたっぷりと抱えていますが、牛の耳からは手に入れれません。乳房のみです。

カミは至るところに浸透していますが、寺院を信じてる人びとはよりたやすくカミの存在感を思えます。
ただし、このためには信心が不可欠です。信心が心を整えます。

寺院にカミが存在していても、信心がない人にはその存在を感じられません。
体験を生むのは信心です...』
-寺院の意味 より-

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