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HOLY LIGHT

LOVE&SERVE マートルヴァーニ日本版 2005-6 VOL2 から 『光の言の葉』抜粋引用

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あらためてこのアンマの冊子「マートルヴァー二」再読しています。
Vol1に続きVOL2より。
なお、個人的な感想はそれぞれのリンクに、また、そこのコメント欄にも〜ご興味ある方は飛んでください。

2005-06-VOL2-NO1
『人はそれぞれサムスカーラ(知性、倫理観、完成や霊性の傾向・レベル)を持っていて、これはオーラをともなっています。
それは自分の行為によって変わるのもです。
例えば、善い行いをするヒトは周りに喜びを与えます。自分が人に奉仕をすれば、自然に周りの人や環境にまで喜びを与えます。すると、それらの喜びが自分のオーラとなって反映してきます。その反映によって、自分のオーラがますますきれいに明るいオーラとなり、大きく上達します。魂が肉体を離れる際に、そのオーラガより高次元に行けるわけです。
そのオーラがいきなりブラフマン(カミ)にまで到達する場合もあります。このカミの次元に行くまでには、何度でも何度でも輪廻転生を繰り返さなければなりません。たとえブラフマンに到達しないまでも、精神的にすぐれた人物になるとか、世界に善い効果を与えられる人になるとか、そうした努力をすることです。
またその反対のことも云えます。怒りなど、他人に悪い影響を与える場合は、それもオーラに反映し、オーラかかすんだり、暗くなったり、低次元のオーラになったりします。
人に奉仕すると人は良い気持ちになり、それが私たちに反映されます。人に悪いこと行うと、人は気分を害し、それも私たちにのオーラに反映されます。
オーラを浄化させるのは、塩にハチミツを落とすことに似ています。塩のハチミツを少しずつ加えることによって、塩味が薄れて、やがて消えてゆきます。
それと同様に、私たちが無我の奉仕、行為を続ければ、暗くてかすんだオーラを浄化することができるのです。
デレビデ例えると、放送局から送られてくる全ての番組は、全てのテレビに届きます。しかし受信機であるテレビ、つまり受け手である私たちが精神向上を目指すというスイッチを押さなければ、カミとつながることはできず、浄化は起きません。
テレビの電波と同様に、私たちの善い行為や想念は、まずはじめに全てカミに届き、それから私たち個人個人に反映されていきます。カセットレコーダーに録音されるように、私たちの全ての行為は残らず記憶されるのです。そしてそれは次の生へと引き継がれていきます。
私たちにはオーラが視えませんね。
なぜ私たちにはオーラが視えないのかというと、クリスタルの玉を川に落とすと視えなくなりますね。それは私たちの肉眼能力の限界を超えているからです。
今代は私たちの心が充分に清まり、敏感になっていないからです。
この部屋にはいろんなホコリが空気中に浮かんでいますが、視えません。ところが壁の小さな穴から太陽の光が差し込むと、ホコリが浮かんでいるのを視ることができます。
そのように私たちの心が敏感であれば視ることができ、鈍感な人には視えないのです』
〜1995年1月30日 日本人グループによるインタビューより〜

2005-09-VOL2-NO2
『人生において成功し満足をおさめるためには、二つのこと、忍耐と情熱が必要です。もしこの二つを持ち合わせれば、すべてが上手くいきます。
若者には情熱がありますが、しばしば忍耐に欠けます。
また年配の人は人生経験によって忍耐を身につけてはいますが、情熱に欠けています。彼らの生命力が枯渇しているからです。このために彼らは自分の望みをかなえることができません。
しかし、よちよち歩きをはじめたばかりの子供をごらんなさい。この子たちは忍耐と情熱の二つとも持っています。なんど転ぼうとも気にせずに、一生懸命歩こうとします。
この姿勢は楽観的な信念から生まれています。子供にはなにかあれば母親が必ず来てくれるという確信があります。
人生に成功するためのマントラは、忍耐と情熱、そしてカミに対する楽観的な信心です。信じる心が私たちに力を与えるので、これがなければ私たちの気力は失われます。
シュリ・ラーマ、シュリ・クリシュナ、ナビは、自己の中の信じる心を目覚めさせた人達です。
「でも私たちは彼らと違い、普通の人間なので」と考えがちですが、私たちの中にも並外れた力があり、すべきなのは、それを目覚めさせることだけです。
子供の態度、初心者の態度でいることが必要です。謙虚と他者への尊敬が私たちを成長させます。カミの恩寵が私たちのところへ来るのを防いでいるのは、私たちのエゴです。』

2005-12-VOL2-NO3
『自由になる唯一の道は、サークシ・バーヴェ(観照している状態)を育てていくことです。これもまた、祈りの目的です。
女性がふたり、隣同士でくらしていました。
片方の女性の夫が亡くなり、彼女は泣き叫びました。
もう一方の女性が慰めて言いました。
「身内に先立たれない人なんでいるかしら?誰だっていつかはそういうときを迎えなければならないのよ。でも、電球がだめになっても電流はそのままだし、肉体が朽ち果てても魂は変わらないでしょう。」
数日後、慰めた方の女性の息子が亡くなり、彼女は激しく泣きわめきました。
そこへ例の夫を亡くした女性がやってき言いました。
「私の夫が死んだとき、慰めてくれたのはあなたでしょう。私に言ったことをおもいだしたらどう?」
ところが何を言っても、この女性は泣き止む事が出来ませんでした。
隣人の不幸の時は傍観者でいられ、隣人にもそうするようにと言って慰められたのに、自分の悲しみにはそうは出来なかった、自分と悲しみを分けてみることができなかったからでした。
身に起きることと自分を分けることができなければできないほど、私たちの悲しみは大きくなります。けれどももし、あらゆる状況を傍観者のように眺めることができれば、わたしたちは強くなっていきいきます。
新聞で飛行機の衝突事故を知ったとしましょう。身内がその飛行機に乗っていたら、悲しみの余り記事を読み進めることは出来ないでしょう。
しかし知り合いが誰も乗っていなければ、わたしたちは次の行へと、目をやっていくでしょう。
私たちは世間の人間関係から悲しみを経験することもあるでしょう。
もし愛する人が思うように愛を表してくれなければ、起こったり、恨んだりします。このつながりは要求や期待からはじまっているからです。
ところがバジャンを歌ったり、カミにすがりついたりするときは違います...』

2006-03-VOL2-NO4
『この間、パキスタンから来たムスリムの女の子が「ヒンドゥになりたい」』とまで言ってきました。けれどもアンマはうなずかずに、自分が信じてきたものをより確かにさせたほうがいいでしょうと伝えました。
アンマは誰にも、宗教を変えるよう言ったことありません。
大切なのは、本当の自分は誰なのかを知ることだけです。これを知らないことこそが、損失なのです。
アンマがマントラを与えるときには、クリスチャンにはキリストのマントラ、ムスリムの子どもたちにもイスラム教徒にふさわしいマントラを与えます。
アンマが言って聞かせるのは、何を信じようと問題ではない、愛と慈しみなどをもてさえすれば充分、そうして心の平和を得られるのだから、ということです。
このことのためには改宗は必要ありません。
誰も彼も同じサイズの靴を履き、同じサイズで同じカタチの服を着て、同じものを食べるべきだと主張するとしましょう。同じグル、同じ預言者、同じ経典を信じさせるのは、それと同じです。
子供も男女も、靴や服を選ぶときは季節や環境に応じたものにするし、さらにサイズや好みもきにするものです。
ただし一つの道を選んだらな、あとは一意専心で励むことです。行きべき道をあちこちに変えていては、いつになってもどこにも着かないでしょう。充分に考えてから、行くべき道を定めるべきであると知っておきましょう。
宗教とは人類の創造物です。
カミはいかなる宗教も創ってはいません。ラーマもクリシュナもブッタもキリストも、宗教を創設してはいません。
いかなる時代、いかなる地域にも、さまざまな精神性の人びとを霊的に高めるために、さまざまな教師たちが現れました。さまざまな宗教を作りあげたのは帰依者たちで、ゆえに彼ら独自の色がそこに加わっています。
人にそれぞれの価値観や好みがあるために、修養がいくつも必要となりました。ですから一つ一つの宗教が大切なのですが、一方ですべての人びとに等しくふさわしい宗教というものも存在しません。kの事実を理解すれば、地上にいる人のすべてを一つの宗教に納めようという理にあわない考えも消えてなくなるでしょう。
霊性とは宗教の内なる魂であり、監修や教義は宗教の外殻にあたります。霊性とは真の自己に目覚めることです。この霊性に取り組む人こそ、本当の宗教的であると云えます。
真の自己に気づくほどに宗教の制約から解放され、完全に真の自己を理解したときには、究極の真理とは唯一無二であり。宇宙存在すべてが真の自己とひとつであることを聡事になります。
すべての相違、分離感、恐れは真の自己を体験するなかで消えていきます...』

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