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青山堂運歩 by 川島陽一
時々刻々とは何か その2『リモート(遠隔)の調律とは?』
わたしたちは、時間を超えるとか、時空を超越するというような、いわゆる「無時間性」についての表現を使うことに安易に、あまりにも安易に慣れすぎているようだ。古くから、宗教的体験、形而上学的体験、特に神秘主義的体験に関わる言説においては、「永遠性」、「無時間性」、「時(空)の彼方」などの表現が、極端と思われるほどの陳腐さで使われてきている。
単なる時間意識の喪失を、仮に「無時間性」と定義してみよう。
そうであれば、気絶して倒れている人でも、深い眠りに入り込み、夢を見ないような人も、さらには、ゲームや仕事に熱中している人も、スポーツで世界記録などを作り、あるいは他を圧倒する別次元の高みを体験する人たちも「無時間性」を体験することになるだろう。
だが、道元の思想、で問題となる「無時間性」は、そのような意味での時間喪失ではない。
大乗仏教では、一般に、人が簡単に時間を超えたり、「時の彼方」に行けるとは考えない。禅において、いわゆる掃蕩門(そうとうもん)、つまり修行的上昇道が至る極限の先、とされる「無」にしても、単なる無存在性、無時間性ということではない。禅における「無」体験の「一念」において、おそらく時間の意識はない。時間意識の喪失は「無」体験の主なる問題点なのではない。存在否定の道が、そのまま存在肯定のへと転換し、「正位(しょうい)」(存在の「無」的位相)が「偏位(へんい)」(存在の「有」的位相)に直結すること、が問題なのである。
「無」すなわち「廓然無聖(かくねんむしょう)」(大悟の境地においては捨てるべき凡も求むべき聖もない) はそのまま「同時柄現(どうじへいげん)」(華厳にいわゆる、過去・現在・未来の全てのものが同時に一挙に成立するという概念)に裏返る。
無時間的と、一見、常識的に見えるほどに、時間性の希薄なこの事態を、観想意識の見処から見直せば、それは、時間性の充実の極致となるのだ。
「同時柄現」とは、観想意識の、圧倒的に澄み静まりかえった鏡面に、あらゆる、過去・現在・未来の区別を脱した「存在者」が、全部一度にその姿を映し出す、全存在世界の一挙開顕、そこではあらゆる時の流れは、停止する。 一切が現勢化してしまい、潜勢態はどこにも残っていないような存在状況においては、ギリシア哲学、とりわけてもアリストテレス的な考え方をするならば、もはや、運動はあり得ない。運動のないところには時間もあり得ない。
ここで話は、一挙に飛躍する。
以前にも空海の話を書いた。その『即身成仏と加持』の中で、空海が嵯峨天皇の病の平癒を祈り、祈りを込めた水を弟子に届けさせる話だ。
空海に習うのは恐れ多い話であるけれど、クライアントさんのお具合が悪いとき整体院にお越しいただけない時がある場合、リモート(遠隔)の調律・調整を行うときがある。それは比較的効果のあることなので、こうして、話の筋道を附けているわけである。確かにリモートの行いは効果がある。時と場所を選ばずに・・・。
新しい「知」の地平の開顕をわたしは彷徨している。現代の知的唯物論的状況において、古い東洋の叡智―禅あるいは、真言密教は、一体、何を寄与しうるであろうか。
道元が言う。
山が歩く、山が流れる、と。
常識の見る世界は、ことごとく実体で充満している。属性は変転する(花の色は変わり、移る)が、実体(変わりゆく色を宿す花それ自体)は変わることがない。大人は幼児と違い、燃える炎が一つの固定した不変のものではないことを理解する知識は持っている。幼児は、風もそよがぬ室内で静かに燃え続ける蝋燭の炎を、一つの固定したものだと思う。だが、石や岩などで構成される、山まで炎と同じ存在論的構造を持っているということは、大人たちも、なかなかわからない。ましてそれが、全宇宙を還流するユニヴァーサル・インテリジェンスの、普遍的存在エネルギーの脈動そのものであるということまでは。
あらゆるものが、流動化されて刻々に生起している。
道元はそれを「有時経歴(うじきょうりゃく)」と呼ぶ。
「たき木(薪)は、はひ(灰)となる。さらにかへりて、たき木となるべきにあらず、しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。 しるべし、薪は薪の法位に住して、さきあり、のちあり。前後ありといへども、前後際断せり。
灰は灰の法位にありて、のちあり、さきあり。・・・・・
たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。」(『正法眼蔵』現成公案)
私たちの意識が、普通、切れ目のない連続した一筋の流れと見がちな時間、なるものを、道元はこういう。
薪が燃えて灰になる。
灰になってからはまた元にもどって薪になることは不可能だ。だが、このような誤った、と常識の考える、経験的事実に基づいて、灰は後、薪は先、というふうに見てはならない。真相は、次のようである(「しるべし」)。薪は薪であるかぎりあくまで薪なのであり(「薪の法位に住して」薪という存在論的位置に止まって)その前後から切り離されている(「前後際断」)、前のなにかから薪となり、またその薪が後の何かになる、というのではない。薪は薪でありながら、しかも、連続して薪であるのではなく、刻一刻新しく薪であるのだ。この存在現出の、一瞬一瞬のつらなりには、前後関係が、明らかにあるのだ。それぞれが「前後際断」、そのような瞬間の非連続的連続が、薪の「法位性」、灰の「法位性」なのである。
それを道元は、「有時」の「経略」という。
「同時柄眼」にもどろう。万物の一挙開現、である「同時柄現」。森羅万象の真の姿を、過去・現在・未来の別を超えて、全部一挙に映し出す世界とは何か。
日本人として古代より生きてきたわたしたち。そこには、神のない世界がある。そして、神を必要としない世界、創造主という中心点のない世界がある。神の代わりに機能するものは、「我」であり、「心」である。
現在の「一念」に、時間の全体が凝縮され、時々刻々の現在に、全存在世界が生起するところの、リモート(遠隔)の観想的意識とは、以上のようなものであろうと、わたくしはおもう。