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青山堂運歩 by 川島陽一

剣と道

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〈道〉=絶対者にはふたつの側面がある。一つは宇宙的側面、もう一つは人格的側面である。
言葉を変えるならば、一つは「ユニヴァーサルインテリジェンス」、もう一つは「イネイトインテリジェンス」。

絶対者は、自然Nature=造化作用を通じて、絶対を経験した結果を提示する。つまり、「存在」を示すところの〈道〉の働きである。

無心はある意味で、無意識の概念に対応するものであるが、心理学的には、それは未知の「力」に手放しで身を任せることである。未知の力とは、絶対者であり、〈道〉となる。どこからともなくやってきて、意識の全領域を支配し、この無心のフィールド=「場」あるいは「場所」で、すべての芸術は禅に溶け込むのだ。

内なる精神に深く通じる必要があり、その精神は、心が生命そのものの原理と完全に調和したとき、はじめてその〈道〉の達人・完成者となる。いわゆる、悟りとはそういうもの。

悟りの状態に近づく賢者を、真言密教では、「不動明王」として、迷いを絶つ〈不動智〉の象徴として見る。不動明王は仏の教えを害そうとする悪鬼を退治するため、威嚇的に屹立する。仏教の象徴的な守護者である。利己的な感情や知的な計算からの完全な自由の維持により、本来の直観の最善の働き=無心の状態、を可能にするのである。

無意識的な意識であり、あるいは意識的な無意識。
智(プラジュニャー)は、すべての生きとし生けるものがもつ。それは、相互に分断されて存在している事物にも一貫して流れているものであり、超越的なもの、いわゆる超越智である。それは、不動の存在、であるけれど、「不動」は、自ら動かないとか、感覚を持たないという意味、ではない。むしろ、無限の運動性をそなえた「精神」である。

刀は武士にとって魂であるとは、忠義、敬意、自己犠牲などあらゆる要素を思い起こさせよう。
沢庵(一五七三ー一六四五)は京都大徳寺の住職であり禅僧である。三代将軍家光に招かれ江戸へ。東海寺という禅寺を家光が建立しそこの開山となる。柳生但馬守は家光の剣の師である。そして、沢庵が柳生但馬守へ宛てた書簡が『不動智神妙録』である。その要旨は、鈴木大拙が『禅と日本文化』(角川文庫)の中で実によく要約してくださっている.

「その本質は、心を〈無明〉と〈迷妄〉から生じるどんな知的な熱意や情動的な障害からも自由な状態に保ち、その絶対的な流動性を維持することである。心の流動性と〈不動智〉の二つは矛盾するように思えるかもしれない。だが、現実の生において両者は一致する。一方を獲得すれば、もう一方も所持できる。なぜなら、そのままの姿としてある〈心〉は、動的であると同時に不動的であり、常に流れ、どの一点においても決して「止まる」ことはなく、他方で、いかなる動きにもまったく影響を受けない永久に同一の中心を持ち続けるのだから。」p166

沢庵いうところの「不動智」とは、無限の運動が可能な精神、つまるところ、「イネイトインテリジェンス」なのであった。

瑜伽行唯識派が授ける四つの智の内の一つである『大円鏡智』を考える。意識が一般に有する根源的な詩的性質であり、鏡に備わった輝きを放つ性質の喩え、と理解する。剣士の心は、本来の直観、つまり無心の状態を可能にしなければならない。円周のない円、つまり円空に象徴される無心の状態に達している必要がある。沢庵の「不動智」とは、そのことに他ならない。

沢庵から柳生但馬守へ宛てた書簡の中で。仏光国師(無学祖元=むがくそげん、鎌倉時代の臨済宗の僧〜一二二六―一二八六。北条時宗の招きに応じて来日、建長寺の住持となった)が、南宋を襲った元の侵略軍の兵士と遭遇した際の話は、「空の心」を理解するうえでとても重要である。

以下、
「振り上げた刀はそれ自身の意志を持たず、空そのものであり、稲妻の閃光の如くだ。打倒される寸前の男もまた空であり、刀を振るう側も同様である。彼らの中に、なんらかの持続可能な心を所持する者はいない。いずれも空の存在であり、"心"を持たないため、打とうとする男は男ではなく、彼の刀は刀ではなく、打倒される寸前の"私"は、稲妻の閃光の中で斬られる春のそよ風の如くである。心が"止まる"ことがなければ、刀の動きは風が吹くのと何ら変わりがない。風は自らを意識することなく木々に吹きかかり、それらを揺さぶる、刀もまた同じだ。」 

この空の心こそ、剣術と同じく、舞踊にも対応する。舞踊家は扇を手に取り足を摺る。その人の心が止まれば、万事が止まってしまう。万事において自己の心を忘れ、目の前の行為と一つになることが肝要である。
さらに奥義の書には、剣術の熟慮に関連する詩的な警句が存在している。その中には明白に、禅の精神が反映されている。

思考と感情からまったく自由な心には虎もその獰猛な爪を差し込む余地がない
一陣のそよ風が一様に葺く 山上の松と谷間の樫の上をなぜ音色はそれぞれ違うのか?

打つことは打つためだと考える者がある
けれど打つは打つためではなく、殺すは殺すためではない
打つ者と打たれる者 どちらも実体のない夢に過ぎない
無念無想 完全な空
けれどそこに動くものがあり 我が道を進んで行く
目には見えるが 手には取れない川に流れに映る月
これが我が流派の奥義
雲と霧 空中で幾度も変容 その上で永久に輝く太陽と月

勝利はその人のため 戦う前からもう既に 彼は自らを思わず 〈太原〉の無心の中にいる

すべては、「空」の原理に対応する。そのことは、剣聖として知られる宮本武蔵、さらに柳生但馬守などの偉大な剣の達人たちが説いた、究極の奥義である。彼らは、禅の根本の精神及びその哲学に精通していた。その元にある歌をさらに挙げてみよう。

耳に見て目にきくならば疑はじおのづからなる軒の玉水
ふしをがむいがきのうちは水なれや心の月の澄めばうつるに
勝事を習ふ習ふと思ひしに負くることをば習ひける故

『剣道及び剣道史』の高野弘正(一九○○〜一九八七)は
「剣道において技術以外で獲得すべき最も肝要なものは、その枝を徹底的に制限するための精神性である。」と述べている。

・・・「無念」や「夢想」として知られるこうした心の状態は「無我」としても知られ、西行や芭蕉の作品に流れる、「さび・しおり」の精神も、この無我の心の状態から出る。月も水も、わたしたちが「水月」として思い描くような出来事を起こそうとは、最初から考えていない。水面の広がりがあれば、そこには月が見える。月しかないが、水があればどこにでもその影が映る。これが理解できた時、あなたの剣術は完璧だ、と言っている。

『剣術不識篇』(一七六八)の著者木村久甫=きむらきゅうほによれば
「知り得ないもののように知り得るのだ。それは知識を超えたもの、"不識"または"不知"である」と

柳生流の原理によれば「西江の水を一息で飲み干す」という剣の鍛錬のすべてがここに表れているのではないだろうか。それは、ユニヴァーサル・インテリジェンスがすべての宇宙を包み込む、という世界であったのだ。


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*TAO LABより
ユニヴァーサルインテリジェンス
日本語で先天的叡智と訳され、全宇宙、大宇宙という概念でこの世の森羅万象を支配し動かしている力です。

イネイト・インテリジェンス
日本語で先天的知能と訳され、誰にでも平等に備わっているもので、身体の機能を常に正常な状態に保とうとうとする働きのことです。
自然治癒力といえば分りやすいでしょう。

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