MAGAZINEマガジン
青山堂運歩 by 川島陽一
途上の存在とはーユニヴァーサル・インテリジェンスを日本語脳から考えるー
誰もがブッダにもイエスにもなれる、から考えをさらに推し進めていこうか。
古い日本の神様たちには、実は、形というものがありません。イザナギ・イザナミ二神が最初の国づくりに失敗したときに、天つ神の許に至ってその命を請う。
和辻哲郎はこのように言う、
『占卜によって知られるのは不定の神の意志であるが、天つ神にとっての不定の神とは何であるか。天つ神の背後にはも神はいない。しかもこれらの神々がなお占卜を用いるとすれば、この神々の背後になお何かがなくてはならぬ。それは神ではなくしていわば不定そのものである。すなわち最後の天つ神たちさえも不定者の現われる通路であって究極者ではない。究極者を対象化された神として把捉しようとする意図はここにはないのである。・・・〔宣長の言う〕古(いにし)えの意(こころ)ばえは究極者を何々の神として固定することはしない』
『和辻哲郎全集』第一二巻(日本倫理思想史上 岩波書店、一九六二年、六二頁。
和辻のいうところによれば、アマテラスを始めとする日本の有名な神々は、神を祀る司祭者の姿が神格化された「途中の神」にすぎないのである。このことをさらに考古学的な解説をするならば、縄文・弥生時代に起源をさかのぼる古い神社には、神を祀る社殿をもたない。例としては、奈良県の三輪神社(大神(おおみわ)神社)のように山そのものが御神体であったり、北九州の沖ノ島(宗像神社)のように島そのものが御神体とされている例が多い。
神は日本人にとっては、本来、形なき存在である。
西洋の美術では、ギリシア神話の神々は画家たちの好んで描く題材であり、ミケランジェロの「最後の審判」は、究極の絶対神を隆々たる肉体として表現する。ところが日本の神々は美術の題材としては、ほとんどとりあげられることはなかった。神の形容として、「超越的」とか「絶対的」という表現は感覚的な日常経験の場をこえていることを意味するけれど、日本の神道ではそのような欲求や努力はあまりにも少なく弱い。
本居宣長はカミを『尋常(ヨノツネ)ならず徳(イキホイ)のありて畏(カシコ)きもの』と定義する。狐や蛇、巨木や巨石の類までもカミであると言った。わたしたちをふりかえれば、年末年始の初詣の習俗などに、無意識のうちに、身のまわりにある森の木々や石や水などの浄められた、形、に神を感じるのである。そのように身近にありながら、形として容易に現されることがないのが日本のカミなのである。
ユニヴァーサル・インテリジェンスをÐ・Ð・パーマーは、神と規定する。
カイロプラクティックの治療対象であるところの、アトラス(頸椎第一番)とアクスイーズ(頸椎第二番)がそれである。日本語脳でそれを見ると、「のど仏」にカミが宿る、となる。のど仏、という「かたち」とは「もの」の形である。「かたち」と「もの」の関係は、西洋哲学史では昔からくり返し重要な考察の対象であった。「かたち」と「もの」の分離は、精神と物質、心と身体、主観と客観を分離して対比させる思考様式となって展開する。東洋では、さらに、日本では以上のような二元的思考様式は発達しなかった。
アンドレ・マルローは、『もろもろの偉大な作品からは〈聖(サクレ)〉のそれにも似た〈保護地帯(プロクティブ・ゾーン)が流出してみえる』『距離を置いて人間をたたずましめる。触れるなかれ、が、なお近寄れ』と表現し、そこに現われた力を「気」と言った。マルローは、日本音楽の音韻、武士道、愛と死に関する感情表現において、独自の文化伝統を見るのである。
永遠なるものは、わたしたちの日常心にあまりないことであるが、日常心の底には、日常的でないある種、別の何ものかが深い谷の淵のようにわだかまっており、日常心が綻びて、永遠なるものの光がキラリとさしてくる。そのような意味で、わたしたちは、永遠なるものに連なっているわけだけれど、自身はけっして永遠でない。永遠でないことを自覚するとき、永遠なるものの憧憬は深まるであろう。
しかしながら、永遠なるものへの憧れは、所詮永遠なる憧れであって、そうした憧れが、具体的には、宗教とか、芸術とか、科学とかの形で表現される。あるいは、宗教や芸術、科学などが媒介されて永遠なるものに連なるのであろう。
「かたち」と「もの」をマルローのいう「気」が繋ぐ、それはさらにその奥に「いのち」が存在する、と言えないだろうか。その「いのち」は「たましひ」と一つである。「たましひ」のさらに奥には、「たま」が存在する・・・・。
三十一音で構成される極少の詩的言語フィールドに、自然の事物事象を投入することにより、無限の記号創造力を生み出す和語(やまとことば)は、一見したところ、閑雅・単純・無作為な、非構造的外観を呈している、とみなされるけれど、実のところ、強力で作為的な構造化を経ており、いわば隠された内的構造力を持って成立しているものといえる。
『古今和歌集』序の冒頭部を見てみよう、
やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける。
夫和歌者 託其根於心地発其華於詞林者也
たね→葉、根→華、こころ→ことば、心地→詞林、というこの構造軸は、次にような意味論的な構造転換が可能である。
隠在→顕在、潜勢態→現勢態、非現象→現象、無限定→限定、未分節→分節、一→多、収斂→拡散等々。さらに細分化すると、無限定の「心地(ここち)」→無限定の志向的現象化としての「情動(こころ)」→現象化した主体としての「意(識)(こころ)」→意識野に現象する内的言語としての「ことば」→可感的に現象する外的言語、つまり、声・字としての「ことば」。
『古今集』序の冒頭のこの構造では、心地(こころ)的全一と声・字としての言語主体とは、先行・後行的二フェイズとして、いわゆる「一声」の次元で完了する、つまり、感嘆詞的な事態しか生まない。
こころ→ことば、という現象展開の二つのフェイズ(位相)は、さらに展開して、二系列の形而上的思想体系構造が想定される。一方は「たま」的主体性のフェイズ、もう一方に『金剛界曼荼羅』系統のフェイズである。
『「たま」は「から・からだ」において、みずからをトポス的に同定することによって、「み」としての現象現成を実現する」(佐竹昭広『万葉集抜書』岩波書店一九六○年、参照)。この「たま」→「から・からだ」→「み」というたま的主体性・たま的存在の構造においては、全ての人間は非憑依体的存在単位として存在しているはずである。ということは、「意・識・懐・情・志・・・(『名義抄』参照)等々、諸々の渡来系の心的機能単位をその下位要素として、いわば隠在的な主体としてのみ、「たま」は機能する。 「たま」(こころ、心地に対応する)の自己発現は、前・言語的な情動の事態として発現する。それは「声に最も近いことば」つまり感嘆詞「あはれ」である。「あはれ」の感嘆詞的事態こそが、「たま」の唯一の自己発現である。以上は、井筒俊彦の妻、井筒豊子『自然曼荼羅』を参考にした
やまとことばとしての「こころ」=「たま」が、真言密教の曼荼羅の漢語系の思想構造の影響下に入ったときに、単語「こころ」の意味地平には芳醇化・豊饒化され、しかも、曼荼羅構造と「たま」構造間には、相互補完性が成立する。
空海の『大日経開題』に、
開口発声の真言
口を開いて呼ぶときに阿(あ)の声あるは、すなわちこれ声(しょう)なり。
この十界(じっかい)所有の言語は皆声(しょう)によって起る。
声によって名(な)顕はる。名はすなはち字なり。
阿字本不生(ほんぶしょう)より一切の法(もの)を生ず。
六塵(ろくじん)ことごとく文字なり。
名の根本は法身(ほっしん)を根源となす。彼より流出(るしつ)して
やうやく転じて世流布(せるふ)の言となるまくのみ。
『声字実相義』
真言を経(たて)となし、密印を緯(ぬき)となし、三昧を杼(ひ)となして、海会(かいえ)の錦を織ってよく衆生の奇観となる。
『教王経開題』
金剛界九会曼荼羅の第一会・根本会(成身会)の形相的一者(象徴記号は「阿字」)の「開口発声の真言」、「阿の声」は、「たま」の発現としての「あはれ」の一声、と構造的に照応する。
そして、「あはれ」は、より記述的に意味直示的記号「ながめ」「見渡し」として展開、さらに「散乱(みだれ)」へと流転しつつ「みわたし」の視野へと生起していく。「ながめ」「みわたし」の景観は、一と多、収斂と拡散との力動的均衡上に、共時的実存空間としての、自然曼荼羅を成立させる。
それは、
みえない霊的な次元にまでつながっているからこそ、誰もがブッダにもイエスにもなれるのだ、といえないだろうか。
古代の日本人は、そのことを常に、心の構造として捉えていたのである。
*TAO LABより
今回の原稿の姉妹編としてこの著作ご紹介いたします。
このタイトル「神」はイエス、「仏」はブッタとも言い換えられます。
ただし、勘違いしないでください〜超傲慢な気持ちで『神を超えよ!仏を超えよ!』とタイトルが述べているのではありません。
考えてもみてください〜イエスもブッタも「ヒト」でした。「神」と「悪魔」の間に存在する私たち「人間」が、ある意味「カミ」でもなく「アクマ」でもなく「ヒト」として成長することを今でも願っているはずです。それこそ、「ヒト」の存在理由のひとつともいえます。
彼らは「教祖」になるつもりなどさらさらなく、彼らを「教祖」として祭り上げ、その実、自分たちの「権力」を得るためにこの偉大な「ヒト」たちを悪用しているとしか...歴史を振り返り、今に至る「各種宗教団体」をみたら判ると思います。
もちろん一部ですが素晴らしい「ヒト」もまたその元での学び合いの団体も存在します。
また、何よりも「愛」と「慈悲」を尊び伝えてくれている彼らがとてもとても哀しいと思うのは...察するに...キリスト教も仏教もそこからイエスやブッタの...彼らの精神性に辿り着いた人類がいないということです。
「シンの平和」は彼らと同等の精神性に到達する「ヒト」がある絶対数になるまで実現しないこと、それは「教祖と信者という関係性=依存」ではなく、「自らが自らの救世主=自立」するよう切磋琢磨、そのプロセスを経てしか辿り着けないこと、明白です。
このタイトル『神を超えよ!仏を超えよ!』は〜イエスやブッタの想いから来たと確信しています。
このタイトルを傲慢だと思ず、その深い真意を納得出来、受け入れ、生きる方たちこそ、「令和の改新=地球イッシン」の今、現れた戦士たちです。
そんな同志である戦士が生まれること、彼らは大喜び、それを望んでいるはずです。
今回の「改新」「イッシン」は「外なる世界」での戦いではなく、自らの「内なる宇宙」での自らとの戦いかと...お互い、自分の宇宙の中で勝利するよう、顔晴りましょう〜:)
イエスとブッタとともに。