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HOLY LIGHT

三島由紀夫さんから二・二六事件へ その2 〜河野壽大尉と故郷熱海と湯河原〜

*TAO LABより
前回の続きです〜本来でしたら3月上旬にアップしたかったのですが、大変遅くなり、今となりました。
下記の写真の場所、訪ねたのは本年2月となります。

それにしても昨年後半から本年春先までなにかに取り憑かれてたように(笑)三島由起夫さん二・二六事件にハマっておりました。
霊的に共鳴すると、肉体を持っていますから:)アクション起こしてしまいます〜そんな体質、お役に立つことばかりではなく、悪魔意識の道具にされてしまったことも...その体験、振り返ると最悪、、、霊媒体質はしっかりと「氣」をつけないとヤバイ!ですね〜〜〜

関連場所も随分と訪ね、また、ネット情報とともに書籍(古本や電子中心)も30〜40冊ぐらい手に入れ、流し読みもありますが、自分なりのパズル組み立てておりました。
現在、その作業一段落〜生活廻り(庭やリフォーム、整理等)に新年度4月から意識と行動移っております。

さて...
二・二六事件(昭和11年)は陸軍の一部将校たちが国家改造を目指し、東京の官邸などを襲ったクーデター未遂事件。
本年はその事件が起こってからちょうど88年というのもなんとも感じてしまいます...

小説『英霊の聲』では、二・二六事件で処刑された青年将校たちや神風特攻隊で戦死した兵士たちの霊に

「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」

「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人であらせられた。清らかに、小さく光る人であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」

「などてすめろぎは人(ひと)となりたまひし」

と語らせています。
あらためてよろしかったら前回のこちら〜その1をご覧下さい。

東京が舞台のこの決起、唯一、「君側の奸」とされた牧野伸顕伯爵が滞在していた湯河原の光風荘にも襲撃の手が伸び、この時8人の別働隊を率いたのが所沢飛行学校所属の河野壽大尉でした。

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大尉らは光風荘に火をかけ、護衛の巡査を殺害。駆けつけた地元消防団員なども負傷。自らも負傷。そんな中、牧野伯爵は脱出に成功して河野大尉らの計画は失敗に終わりました。

撃たれた大尉らは熱海の陸軍衛戍病院(戦後、国立病院となり、現在は国際医療福祉大付属病院)に入りましたが、事件から8日後の3月5日午後、兄の司氏を通じて入手した果物ナイフを携えて病院を抜け出し、切腹を決行。近くの林で腹部を切り、頸部を数回突くなどしたが、ナイフ(といっても切れあじ優れたモノではなく...)は刃わたり7センチほどしかなく、大尉は十数時間以上経った翌朝に絶命した...切れないナイフでのこの行為...なみのガッツでは出来ません...合掌。

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伊豆山を抜け、熱海の海に向かう国道沿いにひっそりと知られず、河野さんの慰霊碑が建立されています。
当時はこの国道がなく、今はこの道の下に病院が移転しましたが、海まで斜面だったと思います。

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実際に割腹した場所はここではなく、写真左側のもっと奥だったとか。
現在、私有地で建物が建っており、こちらに移転したそうです。

兄の司さん...当時、三越で働いていましたが、この弟の死から退社、当時の日本の状況から闇に葬り去れていくこの事件、なぜ彼らは決起したのか?詳細な記録と共に残りの人生をすべて懸け、多くの著作と慰霊活動をやり続けました。司さんの活動+著作、天晴れです!
沢山の貴重な記録と鎮魂の書とも云える著作を残しております。ぜひ、お心ある方はそれらを読んで思い馳せ、また、手を合わせていただけましたら大変有り難く。

さて、熱海と湯河原...故郷は静岡県の東の端熱海、神奈川県の西の端湯河原は思うとこありで越境し、電車に乗って中学に通っていたもう一つの故郷ともいえる場所。その二つのエリアが河野大尉と縁が深いとは〜
さらに私は実はこの熱海の病院(国立病院の頃)で昭和35年3月に生まれました〜その後、この病院は海際に移転しましたが、私が生まれた時は陸軍衛戍病院として使われていた同じ敷地建物です。
生まれた時の記憶はもちろんないのですが:)母曰く、初めての出産、「大変な出血」で難産だったそうです。
母も苦しかったと思いますが、たぶん、私も...

このタイミングで〜何時か記録兼ね、書こうと思っていますが、私の一番最初の記憶〜どちらが先か判らないのですが同じ頃の二つの記憶...も、「血」です、それも悲しみや怒りにまみれた「どす黒い血」...この幼いときの体験が扉になり、「ダークザイド」と共振し、「自分の小宇宙」と繋がったのではないかとあるときに気づきました。
この年齢になり、有り難いことに恩寵+お護りがあった上で、凸凹さまざまなおバカな体験をへて、客観的にそれを認識、コトバに出来るようになりました。

そんな個人的な体験と環境が今回、河野さんの自決に至る流れと重なり、祈らずにはいられませんでした...

事件の舞台になった光風莊(館内写真撮影禁止)にはその果物ナイフや直筆の辞世の句が展示されておりました。

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事件後、火事で全焼しましたが当時とほぼ同じ佇まいで再築されました。

以前、三島さんと河野さんが繋がる熱海が舞台の不思議な1冊を読んでいました。
このタイミングで改めて読み返しておりました。
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熱海の青年将校: 三島由紀夫と私』
著者の原 竜一さんは自衛官でした。
防衛大学を卒業し、幹部候補生として陸上自衛隊に入隊した著者は、訓練中に怪我をし療養を余儀なくされ、図らずも出世コースから外れる。焦りと苛立ちの中で入院生活を送るある日、二・二六事件で唯一自決した青年将校の幻を見る。その後、自らも青年将校として多忙な日々を過ごしていたある日、手にした雑誌で三島由紀夫の『憂国』を読み、熱海で見た青年将校のことを綴った手紙をきっかけに、三島との交友がはじまる。そして--『憂国』執筆から10年、三島は市ヶ谷駐屯地、総監室のバルコニーに立っていた。長年の友人としてその素顔を知る元自衛隊幹部が、沈黙を破って語る三島の肉声、そして「11・25」。35年目の真実...
三島さん関係の他の著作でお二人が交流があったとのこと、書かれているのも見つけられませんでした。
それも踏まえ、なんとも不思議な...個人的には原さんと河野さんとの遭遇〜「こういう体験もある!」ということ、実体験:)から納得していますが、皆さんはどう思われるのでしょうか?


さて、ぜひ、熱海湯河原鎮魂の旅、興亜観音とともにこちらも訪ねたらいかがかと思います。


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