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HOLY LIGHT

三島由紀夫さんから二・二六事件へ その1 〜鎮魂とレクイエム〜

*TAO LABより
三島さんの精神性を掘っているとどうしても二・二六事件にぶち当たります〜この事件、同時進行で地元熱海や湯河原での物語=出来事もあり、そちらについてもカラダと意識を持って廻っていました(そちらは次回に...)が、今回、山中湖三島由紀夫文学館を訪ねたその足で翌日、昭和維新を遂行しようと亡くなった22名の魂を鎮魂している都内三カ所を訪ね、頭垂れ、手を合わせ、深く祈りを捧げてきました。

三島さんが自刃する4年前、1966年(昭和41年)に発表した小説『英霊の聲』で、二・二六事件で処刑された青年将校たちや神風特攻隊で戦死した兵士たちの霊にこのように語らせています。

「もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか」

「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人であらせられた。清らかに、小さく光る人であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた」

「などてすめろぎは人(ひと)となりたまひし」

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英霊の聲 オリジナル版

三島の母の倭文重さんが、三島から『英霊の聲』の原稿を渡されたときの回想が紹介されています。

息子の三島由紀夫から『昨夜一気に書き上げた』と渡された原稿を一読して、私は全身の血が凍る思いがした。どういう気持から書いたのかと聞くと、ゾッとする答が返って来た。
『手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々からぶつぶつ言う低い声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、2・26事件で死んだ兵隊たちの言葉だということが分った』
倭文重さんは「怨霊という言葉は知ってはいたが、現実に、息子に何かが憑いているような気がして、寒気を覚えた」
『暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に』

また三島さんとと親交の深かった美輪(丸山)明宏さんも似たような体験をしている。
美輪さんが三島宅で三島さんといるときに彼の後ろにカーキ色の軍服を着て、帽子をかぶった兵士が立っているのを見た。
三島さんにそのことを告げると、彼は「どんな特徴をした男か?」と風貌などを尋ねた。そこで美輪さんは見たとおりのことを言った。
すると三島は、「それなら磯部浅一という将校だ」と答えたそうです。

さてさて〜この作品は創作か?出来事は夢か幻か?、はたまた、霊界と繋がり生じたリアルか...?
  
*二・二六事件

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昭和11年は陸軍の一部将校たちが国家改造を目指し、東京の官邸などを襲ったクーデター未遂といっていいのか?明治維新に継ぐ、天皇を中心とする「一君万民(擬似的民主制)」復元のため「昭和維新」と称し、「君側の奸」である政府要人を襲った事件。

2月26日未明、国家改造思想に影響をうけた陸軍皇道派青年将校たちは、晩冬にしては珍しい大雪の中、陸軍の兵約1,500名を率いて重臣を襲撃し、首相官邸・陸軍省・参謀本部・警視庁・国会など永田町一帯を占拠。事件勃発後、陸軍内では具体的な収拾策がまとめられなかったのですが、天皇は当初より武力鎮圧を命じ、海軍も決起軍に対決姿勢をとりました。 28日午後には決起軍を「反乱軍」と規定し、様々な方法で投降を勧告し、「奉勅命令」をたてに帰順を迫りました。2月29日、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した2名を除いて投降。

軍上層部は青年将校達に自刃を促すも、彼らはあえて死を選ばず(もちろん生きながらえることなど思ってもおらず)、なにゆえ今回の行動に出たのか?真意を訴え、記録すべく法廷闘争へ〜だが、暗黒裁判とも云える非公開弁護人なしの特設軍法会議の裁判と呼べない断罪によって一方的な死刑判決を受け、民間人を含む19名(内、民間人3名)は銃殺処刑されました...、この事件でトータルで21名の方とともにこの事件に繋がる相澤事件を起こした相澤三郎さんも加え、首謀者として亡くなった方は22名となります。
また警察官5名含め被害者として10名の方が亡くなっています。


回向院(小塚原回向院)
東京都荒川区南千住5丁目33−13
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磯部浅一 妻 登美子のお墓
磯部さんの獄中手記、すさまじい念が籠もっております。

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母国日本は怨霊となった存在が反転し護り神になるという大調和の国でもあります。
お花を手向け、お線香を焚き、意乗りをさせてもらったところ、雨が降ってきました...安らかに嫋やかに、何卒、母国をお護りください。

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余談ですがこちらには吉田松陰、橋本左内等はじめとする安政の大獄と桜田門外の変・坂下門外の変の幕末の志士たち、また、高橋お伝、腕の喜三郎、片岡直次郎、鼠小僧次郎吉など歴史を揺るがした愛すべきヒールともいえる無頼の方々の墓地がこのエリアに集まっています。


賢崇寺
東京都港区元麻布1-2-12 
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二十二士のお墓
首謀者の一人栗原安秀中尉の父親である栗原勇大佐は賢崇寺の29世住職藤田俊訓師に入門、得度して、遺骨の供養、遺族との連絡に奔走し、藤田師も遺骨埋葬合同慰霊祭の許可、墓碑の建立に尽力し、二十二士の合同慰霊祭が行われたそうです。
この「二十二士之墓」は、占領が解除された昭和27年、7月12日の第十七回忌法要に合わせて建立されました。


二・二六事件慰霊像(陸軍刑務所刑場跡)

東京都渋谷区宇田川町1−10 渋谷税務署前交差点付近
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渋谷公会堂裏、渋谷税務署の一角...かつてこの地には陸軍刑務所がありました。軍法会議で死刑判決を受けた青年将校らはこの敷地内で刑に処されました。
30回忌にあたる昭和40年2月、青年将校らの遺族会「仏心会」によって建立されたこの観音像は、刑死した将校たちの慰霊だけを目的としたものではなく、事件で命を落とした被害者──斎藤実内大臣や高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを含めた、すべての犠牲者の鎮魂を目的としています。


それぞれの思いと願い、カタチで家族や国民を、祖国を人類を憂いていた当事者+被害者、またそれぞれの物語を抱え、生き、そして亡くなった遺族の方々に〜合掌

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