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本日の一本
『ONODA 一万夜を越えて』...小野田寛郎さんと鈴木紀夫さん
「29年間嬉しかったことはありません」
あらためて拝見〜もう涙がにじみます...当時は中学生でしたが、いろんな人生経験したからこそ...この言葉、ホントに...
戦争が続いていると信じ29年潜伏を続けた「最後の日本兵」 戦いを終えメディアの前に(1974年)
観たかったこちら、、、鑑賞。
実はフランス映画です。
映画『ONODA 一万夜を越えて』予告編
太平洋戦争終結後も任務解除の命令を受けられず、フィリピン・ルバング島で孤独な日々を過ごし、約30年後の1974年に51歳で日本に帰還した小野田寛郎旧陸軍少尉の物語を、フランスの新鋭アルチュール・アラリ監督が映画化。終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の特殊訓練を受けていた小野田寛郎は、劣勢のフィリピン・ルバング島で援軍部隊が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命じられる。出発前、教官からは「君たちには、死ぬ権利はない」と言い渡され、玉砕の許されない小野田たちは、何が起きても必ず生き延びなくてはならなかった。ルバング島の過酷なジャングルの中で食糧も不足し、仲間たちは飢えや病気で次々と倒れていく。それでも小野田は、いつか必ず救援がくると信じて仲間を鼓舞し続けるが......。主人公・小野田の青年期を遠藤雄弥、成年期を津田寛治が演じ、仲野太賀、井之脇海、イッセー尾形らが共演。2021年・第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品。
監督:アルチュール・アラリ
2021年製作/174分/G/フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本合作
原題:Onoda, 10 000 nuits dans la jungle
配給:エレファントハウス
劇場公開日:2021年10月8日
*気鋭のフランス人監督が、『ONODA』のサバイバルに惹かれた理由とは?
【FIGARO.JP】より転載
初監督作『汚れたダイヤモンド』(17年)で脚光を浴びたフランスの気鋭アルチュール・アラリ。第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門を飾った新作『ONODA 一万夜を越えて』がついに日本公開を迎えた。
―『Onoda一万夜を越えて』は、終戦から約30年後に帰還した元日本兵・小野田寛郎のフィリピンのジャングルでの日々を綴ったものですが、そもそも小野田寛郎という人物に興味を持ったきっかけはなんですか?
最初は、父との会話でした。その頃、僕は冒険映画を撮りたいと思っていろいろ主題を探していたのですが、いいアイデアが見つからなかった。その時、父親から日本の兵士で30年間、フィリピンの島に留まり続けた人がいると聞きました。ウィキペディアで調べたら、小野田さんの出征前の写真が出てきて、とても引き込まれました。
―彼のストーリーのどこに惹かれたのでしょうか。
小野田は終戦後のジャングルで潜伏中、仲間たちが餓えや病気で亡くなっていき、部下の小塚とふたりきりになる。約30年後に日本から鈴木が迎えに来るまで、何を信じ、何と戦い、どうやって生き抜いてきたのか。その時間には、悲劇、友情、ある種の愚かさや不条理など人生における多くの要素が詰まっています。そして最後は小野田はひとりになってしまうのですが――。
―イッセー尾形演じる谷口教官と小野田との関係性が興味深かったです。谷口は、何が起きても必ず生き延びろ、ということを教えるわけですが、小野田は、最後には、上官の命令がなければジャングルから出ることすらしようとしない。小野田の生き方は、個人と全体主義というテーマについてとても考えさせられます。
おっしゃる通り、小野田と谷口教官の間には、ある種のパラドックスがあった。この作品を作っていく中、僕が気付いたのは、多くのことが二面性を持っているということ。たとえば、小野田が命令を忠実に守ることと、自分で決断する、ということのように。伝記には、小野田と小塚がよくラジオで競馬を聞いて、競馬で賭けをしていて、勝者が翌日"隊長"ととなるいうエピソードがある。小塚は、音だけでどの馬が強いか当てるのが上手くてよく勝った。
日本の軍隊は縦割りのヒエラルキーが厳格に決まっていると思われがちですが、そういう揺らぎもあり、一概には言えないのです。竹を割ったようにはっきりしたものではなく、複雑さを含んでいる。残念ながらこのエピソードは脚本には書いたのですが、最終的には前後の関係で削りました。
―日本文化は独特で、海外の監督が日本や日本人を描いた作品で、クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』のような成功例は少ない。その中で『Onoda』はとても素晴らしい評価を得ています。異文化のストーリー、あるいは言語で映画を撮る上で、上手く撮れるという確信はあったのでしょうか。
事前に「こういうやり方でやろう」とかはまったく決めてませんでしたね。確かに、時間がかかる作業だったことは確かです。フランス語で書いた脚本を日本語に翻訳して、それを検証。もう一度、フランス語に訳して、どういった言葉が落ちてしまうのか、どういう言葉が自然じゃないから使えないのか、どう意味が変わってしまうのか......。これらを見直していく作業は時間がかかりました。最初は、まさかこんなに時間がかかると思っていなかったのですが、でも、それは"問題"とは思ってないんです。
"徐々に見つけていく"ことは、俳優を見つける上でも大事なこと。文化的なことでいうと、文化の壁を感じたことよりも、文化の共通点を感じたことのほうが多かったですね。一度たりとも、文化的な問題でわかり会えない、伝わらないということはありませんでした。むしろ、みんなと歩みながら、みんなと一緒に共通のヴィジョンを描いていった。それが僕にとっては重要なことでした。
*小野田寬郎
1922年〈大正11年〉3月19日 - 2014年〈平成26年〉1月16日)
小野田さんの精神力、ある意味、狂気です。
ジャッチではなく、大きな事をなす上で「狂気」ともいえる「精神力」はマストともいえるとあらためて〜凡人には出来ませんが...
演じたお二人〜遠藤雄弥さん(青年期)、津田寛治さん(成年期)、素晴らしかったです。
帰国の際に「天皇陛下万歳」と叫んだことや、現地軍との銃撃戦によって、多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになったこと(フィリピン政府当局の政治判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に日本の敗戦を知らなかったのか、という疑問が高まるに連れて、マスコミからは「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判も受けた。
小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。昭和天皇への謁見も断り(万が一、天皇陛下が謝罪なされてしまうことを避けるため)、新宿区の国立病院医療センターに入院後、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を墓参している。
同じく長期残留日本兵として2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は、父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、GHQのWGIPによる占領統治によって戦前と大きく価値観を変貌させられた日本社会に馴染めなかった。横井との対談が何度か企画されたが、実現しなかった。理由は、横井が「天皇陛下より拝領された」兵器である銃剣を穴掘り道具に使ったことを聞き、小野田が横井との対談を拒否していたからだという。
帰国当初は大きな話題になったため、マスコミにつけ回され、一挙手一投足を過剰取材の対象にされて苦しんだ。帰国直後の健康診断のため小野田が入院した病院の周りをメディアが取り囲んだり、退院後に郷里の和歌山の実家に向かった後も報道メディアが小野田を常に取材対象として追いかけた。実家の上を飛ぶ取材ヘリコプターの音が、ゲリラ戦時の敵軍航空機の音となってフラッシュバックされるなど、平穏な生活は送れなかった。
帰国から半年後の1975年、ブラジルで牧場を経む次兄を頼って移住し、兄と同じく小野田牧場を経営することを決意。バルゼア・アレグレ移住地 (マット・グロッソ州テレーノス郡にて、約1,200haの牧場を開拓。7年間は無収入だったが、10年を経て牧場経営を成功させ、1,800頭の肉牛を飼育した。
その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰(1984年7月)。全国の子どもたちにキャンプ生活の極意や初歩的なサバイバル術などを指導した。また、1988年にルバング島での潜伏生活の回想やサバイバル術などその後も多くの著書を刊行し、作家としても活動...お疲れさまでした〜合掌。
Wikipediaより一部転載
小野田さんの精神性とその結果の生き方...生前、彼はこんな言の葉を残しています。
「夢や希望を語るのは思っているだけ。それを目的に変えなければ達成できない。『したいと思います』から『やります』に変えるべきだ。」
「過去は捨てることはできない。現在は止めることができない。しかし、未来は決めることができる。」
*鈴木 紀夫
1949年(昭和24年)4月 - 1986年(昭和61年)11月)
鈴木さん、本人はもちろんのこと、演じた仲野太賀さんもとてもいい味出しておりました。
1969年3月、主にヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至るバックパッカーの旅に出る。
かつて「野生のパンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢だ」と語っており、野生のパンダ見たあと、大東亜戦争終結後も、日本の降伏を信じずに帝国軍人としてゲリラ活動を展開していた、残留日本兵の小野田寛郎に逢うため、フィリピン・ルバング島に向かう。
1974年2月、小野田との接触に成功。ルバング島には、日本語が話せる原住民が多く、日本語が話せるだけでは日本人と判断されなかったため、初対面の際には、小野田に銃を向けられて発砲される寸前だったが、毛の靴下にサンダル履きという原住民にはない珍妙なスタイルであったため、事なきを得る。別れ際に小野田の顔写真をカメラに撮影、この接触により小野田の救出が現実味を帯び、3月に小野田は日本に帰国。
1975年7月、マラヤ・ダウラギリ群の南東稜コーナボン側斜面の4200m付近に「5頭の類人物を望遠観察した」と主張。
1978年に結婚。喫茶店を夫婦で営んでいた。
雪男を探しに何度もヒマラヤに行っていたが、1986年11月、ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難。
1987年10月7日、遺体発見。享年37。
鈴木の死について、「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ。」と語っている。小野田は慰霊のためにヒマラヤを訪れている。
合掌
Wikipediaより一部転載