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青山堂運歩 by 川島陽一

「心法」とイネイト・インテリジェンス

禅は全宇宙に遍満し、すべてを貫いて流動する一種の生命エネルギーの創造力のようなものを常に考えています。それを臨済は「心法無形(しんぽうむけい)、十方(じっぽう)に通貫(つうがん)す)」と言い表します。

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『臨済録』(示衆)より、
「道流、心法無法、通貫十方。在眼曰見、在耳曰聞、在鼻齅香、在口談論、在手執捉、在足運奔。」
  〜諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、
「本是一精明、分爲六和合。一心既無、随虎解脱。」
  〜もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。
瞬く間もなく、休むことなく働く力こそが、臨済のいうところ。曰く、「活撥撥地(かっぱつぱっち)にして、ただ是れ根株なし」、と。

存在の日常的経験にさまざまな形で客体を認知するところの機能的な主体を、一挙に消し去ることにより、そこに出現する真新しい主体性を、禅は「無心」とよびます。
我が田に水を引くことを承知の上で、以下、「心法=ユニヴァーサル・インテリジェンス」は、「個々人の感覚器官=イネイト・インテリジェンス」を通じてのみ具体的に機能するのだ、と。

さらに臨済はこうもいう、
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)有り。常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠(しょうきょ)せざる者は、看(み)よ看よ」、と。
  〜この全身の身体に、何の位も無い真実の人がいる。それは常にあなたたちの目や耳や鼻や口などの感覚器官から出入りしている。まだはっきりと見届けていないものは、しっかりとよく看よ看よ

この「無位の真人」こそ「心法」でありましょう。そして「無位の真人」は「常に汝等諸人の面門より出入」するのであります。「頸部前彎療法」の核を叙して類なしといえましょう。
 
プラトンとアリストテレスをつなぐギリシア哲学。そこには脱自的な観照体験を基礎とする自然神秘主義が存在します。

「汝自身に還向せよ、そして観よ」とプロティノスの語るものは、まさしく「内観=自身の内側を顧みる」のであります。その内観は、自己の魂が自己自身のうちに、奥にむかって潜みゆくものではなしに、おおきな宇宙へと拓かれてゆくものである点において、ユングの「集合的無意識」、パーマーの「宇宙的意識=ユニヴァーサル・インテリジェンス」と同様のものである、とわたくしは考えております。

「人間は、彼を内から動かす内在的諸能力が全然魂を欠くものであったとしたならば、これほど自由自在に動くことはできないであろう。それどころか、宇宙それ自体も、もしその中に存在する各々のものがそれぞれ固有の生によって生きているのでなかったらば、生命のない死物と化してしまうほかはないであろう。」(プロティノス エンネアデスⅣ、4,36,431)

そこには全宇宙の存在=一切の者、が生きてい、従って一切の者=全宇宙の存在が、魂をもつがゆえに、魂が内観=観照することを意味する。仏教的な表現をするならば、全宇宙が、三昧(サマーディー=瞑想)境にあるのだ。
 
ここで、自分自身を振り返ってみてみましょう。

わたしたちは、じつに、細い管をとおして空をのぞき見、錐の先で地面の深さを見ています。
盲目の人は美しい色彩やパターン認識ができず、耳の聞こえない人は、教会の鐘もオーケストラの旋律も楽しむことができないと思っている人は大勢います。でも、本当にそうなのでしょうか。頭脳も明晰で、よく見える目も持っていて、聞こえる耳もある。でも、本当にそうなのでしょうか。そばにいる夫、妻、子どもたち、父母の話を真に聞ける人は、本当にいるのでしょうか。他人の意見を聞くことすらできない、そんな世の中を、実は、わたしたちは知っている。
そうです、わたしたちは、身体的には生きているけれど、精神的には死んでいる、とも言えるのではないでしょうか。精神的な意味での、心も、耳も持っていないのではないでしょうか。
 
「古池や蛙飛び込む池の音」
が心に響く人は、どこにもいるわけではなさそうです。

老子道徳経によれば「身体のすべての扉を閉じること」によって、すなわち、五感のふつうの機能や理性の区別する営みを停止することによってこそ、人は心の深みへと沈み、潜り「道」にたどり着くようです。

新ためて、『老子道徳経』第五十二章
 天下の全ての事物には、その「始まり」がある。それは万物の「母」としてみなされる。もし「母」を知るならば、「子」もそれにより、知ることとなる。そして、もし「子」を知り、「母」に帰り、しっかりと捕まえるところに返れば、人生を終えるまで、危険に陥ることはない。
もし全ての穴を塞さぎ、みずからの扉を閉しめれば、生きているあいだ、疲れ果てることはないだろう。しかし、反対に、開いているものを閉ざさず、その活動を増やし続けるならば、一生のうちに、救われることはない。
最も小さいものを見うること、私はそれを明るさと呼ぼう。
柔らかさと弱さを保ちうること、私はそれを強さと呼ぼう。
みずからの外にある光を用い、みずからの、内なる明るさに立ち返るならば、自分自身に、もはや、苦しむこともない。
そのような状態を、私は「永遠に踏み入ること」と呼ぼう。
 
万物の「母」に帰ることこそ「心法」であるのだ、と日々クライアントさんに接することで実感いたします。
初冬のけさ相模湾より富士の頂に美しい冠雪を浪間よりみていると、鎌倉時代にタイムスリップしたように、三代将軍実朝を想うのです。大いなる存在とともに生きた彼の詩を。彼こそは、「心法無形」のひとでありました。

大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも  (実朝)


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