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本日の一枚
神の唄=SacredSongs...歓喜の歌: ベートーヴェン 指揮セルジュ・チェリビダッケ
*TAO LABより
母校玉川学園は幼稚園から大学まで、歌で始まり、歌で終わる〜皆で合唱を毎日毎日、来る日も来る日も。
その一つの集大成に玉川大学1学年全員で年末に歌う「第九」がある。その歌を唱う舞台は今なき普門館。
当時は自分が未熟で解らなかったけど、希有な光=ホーリーな体験と友たちとの素晴らしいリアルな共感を与えてくれていたんだとあらためて実感しています、この歳になると〜感謝というより大恩を...
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125(ドイツ語: Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ベートーヴェンが1824年に作曲した独唱と合唱を伴う交響曲。ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。
ベートーヴェン自身は表題をつけなかったが、副題として「合唱」や「合唱付き」が付されることも多い。また日本では親しみを込めて「第九」とも呼ばれる。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられる。第4楽章の主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。
わたしはひとつの組織や団体、主義や思想に組みしません、染まりません。逆に言えば、どんなことにも自分なりに素晴らしい長所を見出したのならそれを吸収消化したいと思っています〜で、下記、なるほどと思う言の葉の紹介踏まえ、今回、神の唄=SacredSongsのひとつとして第九をシェアーしたく。
以下、二千十九年十二月十九日の積哲夫『光文書 イエスの茨の冠』Vol.684より転載
『この二千十九年の十二月に、仏界が白山のシラヤマヒメと共に用意してきた、ミロクのタマを、地上の人間界にくだすことをはじめたことに呼応して、ことし地上から天に戻られたイエスのミタマもまた、この時のために用意してきたものを、信仰ある地上の人間にくだすという伝達がありましたので、報告しておきます。
それは、十字架上のイエスの姿にあった、あの茨の冠です。たぶん、クリスマスの前後に、この世界の複数の人間が、夢の中か、祈りの中での幻視か、または、啓示というかたちで、イエスの手から、イエスの頭に被されていた茨の冠を自分の頭に授けられるというヴィジョンを見る、または、体験することになるはずです。
その体験をする人間は、いま、キリスト教徒であるというよりも、イエスの神界に座を与えられていた、たましいの持ち主ということです。たぶん、試練の多い人生の中でも、正しい信仰を失わなかったものたちに、その奇跡が起きます。
その冠を授けられた時に、その人間の頭の中に、たぶん、この言葉が響きます。
「さあ、いきなさい。
あなたは私であり、私はあなたである。」
人間は神性のかけらを与えられて、この地上で生を受けます。そして、その神性のかけらとは、神の仕組みの全体像を復元する、人間の生命でいうなら、DNAのようなものなのだと考えて下さい。
イエスの再臨とは、あなたの小宇宙の中で起きるのです。
精神学がお伝えしている、ひとりひとりが自分の小宇宙の救世主であるというのは、そういうことです。
ここからは、私の思考系とそれを育てた音楽の話を、クリスマスから年末にかけて、多くの日本人が聞くであろう、バッハとベートーベンと、日本語脳というテーマでお伝えしておきます。いうまでもなく、バッハは、新教と旧教が国を二分して戦い、人口が三分の一にまで減少したとされる、ドイツの三十年戦争の後に出た作曲家で、プロテスタントの教会音楽をつくりました。
注)三十年戦争
1618年 - 1648年
腐敗したローマ教皇庁へのアンチテーゼとして世に出た、ルターの宗教改革がなければ、バッハの音楽はないわけです。そして、バッハの音楽には、キリスト教的にいうなら、天使が関与したかのような、天上の響きが附与されました。結果として、その音楽は、理知的で数学的なものになりました。その時代のすぐ後に、ヨーロッパは、さらなる大激動に見舞われます。
それが、フランス革命であり、血なまぐさい革命の混乱の後に、ナポレオンの登場と、戦乱が続きます。この時代に出たベートーベンは、激しい感情に揺り動かされながらも、その激情に流されることのない思索する力を音楽に附与し、バッハとは別の天上の響きを地上にもたらしました。
注)フランス革命
1789年 - 1799年
日本においては、第一次大戦の時に、青島にいて日本に降服したドイツ軍の将兵が、捕虜収容所のあった徳島で、ベートーベンの第九シンフォニーを初演し、それ以来、日本人の第九好きは変わることがありません。
注)第一次大戦
1914年- 1918年
なぜ、日本人は第九シンフォニーが、これほど好きなのか。理由は簡単で、一般の日本人の精神性が、ベートーベンのそれに同調しているからにほかなりません。そして、ベートーベンの第九の第四楽章の歓喜の歌は、千九百八十五年に欧州連合の歌とされているように、ヨーロッパ全体の精神文化の象徴として、位置づけられています。
西欧文明の近現代における、最も崇高な精神的到達点を示しているのが、ベートーベンの音楽だといってもいいのでしょう。
私は、このバッハの音楽とベートーベンの音楽を、ある時期、聴き続けて、その音楽の構成のなかに、神と対話したり、神と格闘したりする、人間精神の成長と進化を加速する、ある種の法則性を発見しました。
私の日本語脳を形成するために、バッハとベートーベンの音楽は決定的な役割をはたしているといえます。そして、これらの延長上に、意識体としてのイエスとのコンタクトも生まれたのです。
日本語脳というものは、このように、世界の最良の精神的到達点を吸収できるように用意されてきたといってもいいのでしょう。その意味で、私の精神、または思考系というものは、ベートーベンより受け継いだものともいえるのです。
日本精神が、このようなかたちで、キリスト教文化圏における成果を吸収することで、すでに行き詰まったヨーロッパやアメリカの一神教の文明の次をつくることになるというのが、この日本列島に置かれた最後の一厘の仕組みなのです。私たちの精神活動は、神性の向上と再発見のためにあります。それに気付けば、誰もがイエスに会えるはずなのです。』
*日本語訳歌詞
(尾崎喜八 意訳・作詞)
おゝ、友よ
それならぬ、
楽しく、深くなほ、
歓喜に満てる歌を。
歓喜(よろこび)、聖なる神の焔(ほのお)よ、
耀く面もて我等は進む。
裂かれし者等を合はす汝が手に、
もろびと結びて同胞(はらから)となる。
心の友垣、操の妻を
かち得し者等は集ひて歌へ。
おのれを慰(たの)みて驕れる者に、
此の世の眞(まこと)のよろこび有らじ。
よろづの物皆、自然を生きて、
なべての人皆、光に浴みす。
友等と、力と、愛とを降ろす
御神の姿の在らぬ限りなし。
あゝ、造物主、日の神の
遙けき御空を天駈けるごと、
行け、汝が道を、勝利の道を、
勇みて、つはものの行くがごとく、
行け、我が友よ、いざ行け、友。
捧げよ、諸人、人の誠を
父こそ、いませ、星空の下に。
仰げよ、同胞、けだかき父を。
ひとりの父を、星空の上に。