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青山堂運歩 by 川島陽一

「気」の哲学

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凍てついた真冬の早暁、目覚め身支度をととのえ剣道場へ向かう。夜空の真上には北斗七星、街の明かりがあっても七つの星はすべてよく見える。さらに目を凝らすと海を航海するものたちの不動の明かり、北極星を確かめます。

その輝きを見るにつけ、わたくしは荘周(荘子)「胡蝶の夢」を想わずにいられません。先ほどまで夢を見ていた自分が、いま星を見ている。天上の星がわたしを見ているような錯覚にとらわれるのです。星とわたしの間には、何か、が満たされているからこそ、又区別がつかなくなる、時が在る、のではないでしょうか。

荘子((BC三六九頃―二八六頃)、道教の始祖の一人。)と並ぶ「道教」(タオイズム)の老子(実在が確かでない人物。『道徳経』の著者。)はこういいます、

 道は一を生じ(一元気)
 一は二を生じ(陰陽二気)
 二は三を生じ(和気)
 三は万物を生ず

と。

 『老子』(第四十二章)の中の言葉だが、「一」は一体になったものであり、渾沌(カオス)状態のものを意味し、それを「元気」ともいう。元気という言葉は、わたしたちが日常的に使う言葉であるが、すべてのものの生成の根源ということでもあります。根源が正常である、ということを「元気」というのです。

すべてのものの根源である「渾沌」状態の「元気」から、男性原理の「陽の気」と女性原理の「陰の気」の二つが分かれる。「陰陽二気」であり「二」によって象徴される。次に陰陽二気が交わり、陰気でも陽気でもなく、陰気でも陽気でもある第三の「和気」を生じる。「和気」は「三」で示される。「三」より万物が生じる、と老子はいうのです。

以上のように考えると「道家」=(タオイズム)は「気の哲学」ということができるでしょう。

星とわたしの間の、何か。その広大深遠な宇宙空間を満たしている「大気」の流れ、人間の生命の営みであるわたくしの呼吸、気息を「気」という同じものとして捉え、この気の流れによってすべての現象を、「気」は説明するのです。
この「気」に、人間の側から接近していくものは「道」であり、あらゆるものを包みこみ呑みこんで「気」を充実させていくのです。

 「そもそも道は、時間のない空漠とした虚空から生まれた。
 その虚空に時間と空間のある宇宙が生まれ、その宇宙に元気が生じ、その元気に境目ができた。
 澄んで輝くものは高くたなびいて天空となり、濁ったものは滞んで大地となった。
 天と地の精気が重なり合って陰陽となり、陰と陽の二気が集まって春夏秋冬の四季を作り、四季それぞれの精気が分散して万物となった」

『淮南子(えなんじ)』(前漢―高祖劉邦が建てた統一王朝(紀元前二〇二―後八)ーの武帝の頃、淮南王の劉安(紀元前一七九―一二二)が編纂。)(天文篇)に世界の成り立ちが書かれています。

老子の『道徳経』第四十二章に 

〈道〉が一を生じさせる。
 一が二を生じさせる。
 二が三を生じさせる。――を踏まえているは明らかである。

また、老子『道徳経』第二十六章に、 「柔弱は剛強に勝つ」とあり、

 〈道〉が何かを縮ませようとする時には、しばらくの間、それを拡大させてく。
 何かを弱めさせようとする時には、しばらくの間、強めておく。
 何かを廃止しようとする時には、しばらくの間、それを高めさせる。
 何かを取り去ろうとする時には、しばらくの間それに与えておく。
 これこそ「微妙な智慧」と私が呼ぶものである。
 柔らかくで弱いものが、硬くて強いものに勝つ。
 魚は、深いところから離れてはならない。
 国の鋭い武器は、他人に見せてはならない。
 
 「柔道」を確立した嘉納治五郎(一八六〇―一九三八)の「柔よく剛を制す」はここから来ている。
「道」の哲学は、わたくしの学んでいる「剣道」にもこめられてい、宮本武蔵(一五八四(天正十二)年―一六四五(正保二)年)はこういうことをいっています。

 観(かん)即ち物ごとの本質を深く見きわめることを第一とし、見(けん)即ち表面に現われた動きを見ることを第二に

と。

宮本武蔵『五輪の書』水の巻は、剣術の技法や鍛錬の仕方を説く。術の基礎であるところの心の持ち方、姿勢、視点などに焦点を当てている。

「目の玉うごかずして、両わきを見ること、肝要なり」
「目の附け様は、大きに広く付るなり。観見(かんけん)の二つあり、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」

柳生但馬守宗矩はこういう

「一、わが身にいたり物いみする事なし。
 一、仏神は尊し、仏神をたのまず。
 一、兵法の道をはなれず。」

上泉伊勢守を創始者とする新陰流の奥義にはこうあります。

「思考と感情からまったく自由な心には、虎もその獰猛な爪を差し込む余地がない」
「打つことは打つためだと考える者がある、けれど打つは打つためではなく、殺すは殺すためではない、打つ者と打たれる者、どちらも実体のない夢に過ぎない」

これらの表現には、「気」または「空」の原理が働いているのです。

頸部前彎療法をうけた方は、まず第一に首が座り、そしての力が抜け背中の筋肉は穏やかに、重心が安定して両足の裏土踏まずが空くことで、しっかりと立てるようになる。
「丹田」に気が下りるからだ。

呼吸は深く穏やかに、頭はすっきりとし、手足は暖かくなる=「頭寒足熱」であります。

通常は、「頭には熱を持たせてはいけない」つまり、熱をこもらせない、ということ。ですから頭を冷やして、というのは正しくはなくて、血管、毛細血管、神経が密になっているところの頭を冷やす、ということはお医者様も推奨してはいないのです。
もっとやさしく考えると、頭は常に涼しく、が正しいと思われます。

足が熱感を持つは、文字どおり、正しいことではありますけれど。総合すれば、頭は涼しく足は暖かい、ということです。

さて、「臍下丹田」はどうでしょう。
漢方によれば、この場所に意識を集中して力を集めれば健康が保たれ、勇の気が湧くといいます。臍(へそ)下三寸、わたしども武道家は、特に優れた者はこの部分(下っ腹)がまるみをおびて、突出しているのを常といたします。

最後に、「血の巡り」ですが、昔は、町のおばあちゃんたちはこういったものです、曰く、「あの人はなんだかめぐりがわるいねえ」、なあんって。
「血の巡り」が悪ければ、当然のことながら、なんですね。

ところで、日本人の三大死因である病気の一つに、ガンがあります。
ガンは、異常な細胞ではなくして、「低酸素」「低体温」のなかで、生き延びるために生じます。
その真逆の環境を与えれば、ガンは自然消滅、自然退却するという学説があります。
ひとの体内深部は、酸素が活発に働けるように、実は、なっているのです。血流が悪くなると、細胞は酸素不足になり、血流がとだえれば、体温は下がります。

健康の定義はつまるところ、あまりむつかしくは、実は、なかったのです。

「頭寒足熱」

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「臍下丹田」

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「血の巡りがよい」

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そこに真の「元・気」はあるのではないでしょうか。

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