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本日の一冊
大原美術館→倉敷美観地区→大原家〜孫三郎→総一郎→謙一郎に関わる著作読みました。
*TAO LABより
昨年末、念願だった倉敷を訪ねることが出来ました。
一番、楽しみにしていたのが倉敷にあるエリア、美観地区を訪ねること。
残念ながら月曜日であり、また貸し切り日でもあった大原美術館を散策することは叶いませんでしたが、このエリアの保存、社会生活への寄与、さらに日本+世界の美に貢献した実業家一族「大原家」に大変興味持ち、明治から現代に渡る三代の生き方を知りたく、ネットとともに下記の著作、読んでみました。
いや〜特にお金の使い方の目的とセンス、敬服いたしました。唯物論に囚われ、お金を独占することが目的となってしまっている人類社会に、それなりの「毒」も飲み込みながら「善」「美」の精神性をこの次元に具現化すべく降りてきた道楽者超えた極楽天使:)と呼んでもよい天晴れな大旦那たちでした。
大原孫三郎と児島虎次郎
『わしの眼は十年先が見える ― 大原孫三郎の生涯』
城山 三郎:著
大原総一郎
『大原総一郎 ― へこたれない理想主義者』
井上 太郎:著
大原謙一郎
『倉敷からはこう見える - 世界と文化と地方について』
大原 謙一郎:著
*大原美術館
あらためてゆっくりと訪ねたいこちらについての赤瀬川原平さんの記事を見つけたので、一部転載いたします。
『大原美術館は個人美術館の元祖のようなものだ。倉敷にこの美術館が出来たのは1930年で、そのころはそもそも美術館が日本にほとんどなかった。西洋美術への関心が広がって、はじめて美術館という施設が必要になってくる。
大原美術館の創立者は大原孫三郎。大原家はこの土地の昔からの大地主で、紡績その他の事業も幅広く営んでいる。そういう家の御曹司だ。その立場が大きいだけに、美術館の成り立ちは少し違う。
個人美術館はいまではたくさんあるが、その多くは個人の趣味が高じて美術館にまで到達したものだ。でも大原美術館の場合は、孫三郎の趣味からではない。それよりも福祉というか、慈善というか、世のため人のためという思いから蒐集が始っている。基盤としては倉敷紡績の事業があるのだけど、そのほかに病院や農業研究所など公益性の高い所に多く投資している。その一つに奨学金制度があって、その奨学生となる児島虎次郎と孫三郎が出合ったのがそもそものきっかけだった。虎次郎21歳、孫三郎22歳というから、若い。
以後虎次郎は大原のバックアップもあって画家への道を歩むが、ヨーロッパ留学中に実感した西洋美術からのナマの刺激を、ぜひ日本にも紹介したいと思い、現地からいくつかの作品の購入を孫三郎に打診する。
孫三郎の個人的な趣味はむしろ日本の古美術の方にあり、そのコレクションもあるが、西洋美術はまた別のことだった。でもそれが日本の画家たちのためになるのならと、徐々にその購入を容認していき、次第に大原コレクションが形を成していく。
その際孫三郎は、金は出すが口は出さないというスポンサーとしての理想的な形を通している。孫三郎はこの美術館に限らずほかの福祉事業にしても、これと見込んだ人物にすべてをまかせて、あとは出資だけをしたようだ。
でも若いころはずいぶん遊んだらしい。上京した学生時代に放蕩の限りを盡して、郷里に連れ戻される。一説には借金の額がいまでいう一億円、という話もあって、やはりはんぱではない。でも帰郷後身内に不幸があったりして本気で謹慎し、その間に岡山孤児院の石井十次に会い、地位にあるものの奉仕活動に目覚める...』
「進取の気に富む美術館『大原美術館』 岡山県倉敷市」より
つづきはこちらに
孫三郎さん、金は出すけど口は出さない〜流石、若い頃、出鱈目放蕩三昧やり、そこから改心、学び立ち上がった方は違いますねぇ〜超イカしてます!