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青山堂運歩 by 川島陽一
魂の音
―心とからだの融合―
古来、絵画や書画などの芸術作品、そこに生き生きとした気品、風格、味わいを感じさせる言葉に、「気韻生動(きいんせいどう)」があります。
中国元の時代の末期、陶宗儀(とうそうぎ)の随筆「南村輟耕録(てっこうろく)」の中に六朝時代南斉(なんせい)の謝赫(しゃかく)の「古画品録」の中の画の六法の一に掲げられているものです。
「気韻」すなわち「精神的な音」は「魂」の音。
宗教哲学や絵画、書道、建築、さらには造園、剣道、茶道の発展から形成へそしてさらなる洗練へ。
「魂」の音が果たした役割は大きい。
必然的に「魂」の音は、歌の世界へとわたしたちを導きます。
歴史の歌声、それはホメロスの詩であり、聖書の詩篇そして『リグ・ヴェーダ』の聖歌などです。
インドの『リグ・ヴェーダ』は前十二世紀前後、そこから少し遅れて中国で『詩経』の時代が始まり...わが国の『万葉集』も、古代歌謡として民族の歴史の始まりをかざります。
歌謡の成立は、自らの表現への自由な衝動とともにあった、のではないでしょうか。
『古今集』序に、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」とあります。
ことばには呪能があるとされ、呪とは、のろうの意味だけではなく、祝うなどの意味があるとされています。
「ことだまの幸(さき)はふ国(日本のこと)」には特にその信仰がありました。
呪能のあることばは「ことわざ」といい、「わざ」とは呪的な「力」です。
『日本書紀』「垂仁紀」二十五年に、天照大神は 「天照大神はこの神風(かみかぜ)の伊勢の国は、常世の浪の重浪(しげなみ)の帰(よ)する国なり。傍(かた)国のうまし国なり。」とのべられてます。
古代歌謡には、草木にも神が宿る、大きな樹は特に神聖な樹であり、蔦かづら・寄生木(やどりぎ)などのある大木には神が住むとされたのです。
青山のたたずまい、もまた霊的なものの現われでしょう。
あらゆる霊的な力、自然のもつ神秘的な力はわたしたちの「魂」をゆるがし、生命力を豊かにするのでしょう。
『万葉集』に「玉久世(たまくせ)の清き河原に身禊(みそぎ)して斎(いは)ふ命は妹(いも)がためこそ(2403番)」とあります。
自分が禊(みそぎ)をして、自分の魂を相手に振りむける、つまり「魂振り」をした効果を自分の想う相手に及ぼすという意味の歌です。「妹がためこそ」である。あなたのために私は禊をする...自分の身を、要は自分の魂振りをするのだけれども、それが同時に自分が想う人への魂振りでもある、自他の隔てというものが少ない、自他が容易に同一化しうるという、生命観の世界が現われているというように思われます。
文字学の白川静(一九一〇〜二〇〇六)は、『初期万葉論』『後期万葉論』という著作を出しています。
初期の時代は柿本人麻呂(六六〇頃〜七二四)の死とともに終わる、と白川は論じてます。
また白川はこう述べてます。
「なお古代的な自然観の支配するその時代、人びとの意識は自然と融即的な関係にあった。思うことにより容易に共感関係に入りうる古代人にとって、遠く旅路を辿っている旅人の行く空に春雨が降る、その雨は自分のことを想う憂いの涙であり、これを誰かかわかして歎きをとどめてほしい、と歌をうたうのである。」
「あぶりほす人もあれやも家人の春雨すらをま使いにする(1698番)」
すべてのもの、山川草木が霊性をもち、互いに同じ次元において共に感じつつ、感情をわかつ〜つまり、自己と他者の区別のない世界がそこに存在していた...翻って現在のわたしたちはどうだろうか、と。
明治以降、西洋文明を導入した日本は、実に様々な面で西洋化を果たしました。ですが、現代のわたしたちは、物質主義といえばよいのでしょうか、拝金主義という、まさに、お金がすべてと言ってもいい社会に暮らしているのです。
そして、わたしたちはあらゆるところで、「自己」と「他者」という対立を目にします。
さらに目を向けるならば、「国内」「国外」、「地球の内」「地球の外」、「家の内」「家の外」、「心」「自然」。あまりにも利便性のよい社会がかえってわたしたちを束縛していることを、どう考えたらいいのでしょうか。
"今ここ"にいるわたしたちは、数かぎりのない課題、それも極めて深刻な問題に囲まれて暮らしています。無数の難問を不可避的にかかえこみ、対処せざるをえぬ、ということが現代に生きるわたしたちなのではないでしょうか。
果たして幸福なのか、災難なのか...いづれにしても、最後は、自分以外に拠りどころを見いだせなくなっているのが、わたしたちなのでしょう。
カイロプラクティックは、医学用語であるところのアトラス(頸椎第一番)を中心にして脊柱を調えることを指向するアメリカ発の治療方法です。
一方、カイロプラクティックから導き出された『頸部前彎療法』では、アクスイーズ(頸椎第二番、軸椎)=「仏の坐」「のどぼとけ」を中心として、身体および精神の調和・調律を図ることを目的とします。
以下は、タオラボの白澤さんからのご示唆を踏まえてのことですが、両者の違いを、唯物論=一神教=英語脳、唯心論=多神教=日本語脳、と考察いたしますと、その違いが明確になるように思います。
軸椎を中心とする『頸部前彎療法』は、つまるところ、釈迦=仏陀と共通の宇宙軸・時間軸であり、日本語脳の為せるものなのでありましょう。
『頸部前彎療法』では、クライアントさんは自らの「内部」、すなわち自らの心の状態や精神的リアリティを外面化するに至ります。曰く、「体が温かくなりました」「涙がとまりません」「目がはっきりと見えます」「おなかが、ぐるぐるいいます→(べんぴがちだった)」などなど。自らの内面を表現する行為そのものが、本来の「自然」が自らの内部を表現する行為に他ならなかった、のです。
大宇宙の叡智=ユニヴァーサル・インテリジェンスの側からは、自らの内部が世界全体に浸透し、自然を貫く生命の内的リズム=イネイト・インテリジェンスは、クライアントさんの「からだ」を通して外部化するのである。こうして内と外、心とからだは溶け合います。
軸が整うことで、わたしたちの脊柱は上(頭部)から下(仙骨)へ、内部(脊髄神経))より外部(末梢神経)へと整いすみからすみまで、すべてのエネルギーはいきわたり、
整ったからだにはおのずと豊かな心があわさるに至ることでしょう。
道元は言う「父母未生以前本来の面目(ぶもみしょういぜんほんらいのめんもく)」と。
本来の自己とは・・・、と彼は常に私たちに語りかけています。
父母から授かった本来持っている力、大いなる生命力を大切にすることこそが、大切なのだ、と教わりつづけている。
魂の音、それは「魂」の声でもあったのです。