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ホリステック・ライフに向けて by 中川吉晴
「行為」の道とは何か -『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- vol9
*TAO LABより
同志社大学Well-being研究センターから2021年3月29日に小冊子『ウェルビーング研究 3』が発行されました。
その冊子には当社刊『神の詩 バガヴァッド・ギーター』を引用しながら同志社大学社会学部教授の中川吉晴先生の"「行為」の道とは何か-『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- "という論文が掲載されています。
その論文を中川先生及び同志社大学Well-being研究センターのご厚意によりここに転載させていただけることとなりました。
ありがとうございます。
章単位ごとに12回に分け、連載させていただきます。
前回より少し間が空いてしまいましたが、今回は9回めです。
では、今此処にいながら中川先生とともに時空を超えたギーターの旅をお楽しみください。
*9 非二元的な気づき
私たちの通常の行為はどうなっているのか、ここでもう一度ふり返っておきたい。日常の行為では内外の刺激を受けて、その反応として、行動を引き起こす欲求や動機が生じる。欲求や動機が芽生えると、行為はほとんど無自覚のうちに自動的に引き起こされる。そして大半の行為は習慣的反応として生じる。もちろん意図的に決意してなされる行為や、あらかじめ決められた予定に従って意志してなされる行為もある。こうした行為は比較的意識的になされるが、それでもいったん開始されると、その後は機械的になされることが多い。実際のところ最初から最後まで高いレベルの意識を保ちながらなされる行為はほとんどなく、大半の行為が低い意識レベルでなされる。コリン・ウィルソンは、それを「ロボット」にたとえている。
また、たとえ無自覚であれ、ほとんどあらゆる日常行為に行為者という自我意識が入り込んでいる。「行為者」がいなくなるということは、実際のところほとんど起こらず、行為者は行為を構成する要素として行為のなかに埋め込まれている。したがって、ヴィヴェーカーナンダが言うように、自己滅却や無私性を最初から求められても、実際にはそのようにはなっていない。むしろ、ここで重要なのは、ラム・ダスの言うように、最初から無私になるのではなく、行為者から脱同一化し、行為のなかに入り込んでいる自我を観察するということである。行為のなかに自我が混在していても、それもまた観察される対象であり、行為者は行為の一連のプロセスのなかで溶け去っていく。
同様に「結果を動機としないで、結果に執着することなく行為せよ」と言われても、たいていは特定の結果を求めて行為が生じるのであり、個々の行為には必ず何らかの帰結が伴う。行為は変化を引き起こすものであり、私たちはそうした帰結を、期待と照らし合わせて即座に成功とか失敗と判断する。こうした判定作業も、それと意識されることなく自動的に生じる。したがって、結果は客観的に存在しているのではなく、私たちの側の投影をつうじて生じるものである。この意味で、結果に執着しないとは、結果を意識しないようにすることではなく、結果を思念してしまう思考プロセスに注意深く気づくということである。そうした思念を観察していると、結果を自動的に思念することが弱まり、結果の判断を手放すことができるようになる。
行為を見ることができるようになると、行為が生まれ、それによって生じた変化がありのままに見られることになる。それは「結果」によって切り取られる部分よりも広い。結果は広大な成り行きのなかに埋め込まれ、そのなかに溶け去っていく。結果を手放すとは、それを関係性の世界のなかに解き放つということである。このように結果を動機とせず、どんな結果も等しいものとみなし、それに執着しないうえでもっとも重要なのは、気づきを高めることであると言えよう。カルマ・ヨーガの実践は、気づきを持続的に高めるなかで可能になるのである。
ところで、少し横道にそれるが、行為への気づきは、わが国では「無心」という言葉であらわされている。よく知られているように、江戸時代の禅僧沢庵は、柳生宗矩にあてた書簡『不動智神妙録』のなかで、剣術の心得について述べているが、そのなかで「有心」と「無心」(偏心と正心、妄心と本心)をとりあげている。「有心」というのは、何かに心を止め、心をそこに置いた「止まる心」である。たとえば、相手の動きや太刀、自分の太刀や身体などに心を止めることである。そうしたときには、さまざまな思考(分別)が働き、行為の結果にとらわれ、心は不自由になっている。「有心の心と申すは......何事にても一方へ思ひ詰る所なり。心に思う事ありて分別思索が生ずる程に、有心の心と申し候(有心とは......何事につけ一方へ思い止まる所があります。心に思うことがあって、あれこれと分別思案するので、有心の心というのです)」(市川, 1978, p. 221)。
これに対し「無心」は、どこにも心を置かない「止まらぬ心」である。「無心の心と申すは......固り定りたる事なく、分別も思索も何も無き時の心、総身にのびひろごりて、全体に行き渡る心を無心と申す也。どつこにも置かぬ心なり(無心の心というのは......こり固まることがなく、分別も思案も何もない時の心、身体全体にのびひろがった心を申すのです。どこにも置かぬ心です)」(pp. 221-222)。
心をどこに置くのかということについて、沢庵はこう述べている。
"どこにも置かぬことだ。そうすれば心は我が身いっぱいに行きわたり、全体にのびひろがっているゆえ、手のいる時には手の用を、足のいる時には足の用を、目のいる時には目の用をかなえ、必要な所々に行きわたっているので、どこでも必要に応じて、自由な働きをすることができる。万一にも一つ所に定めて置くなら、そこに心を取られて働きが欠ける。置き所を思案すれば、思案にとらわれるゆえ、思案も分別も残さず、全身に心をなげ捨てて、どこにも心を止めず、その所々でズバリ用をかなえるがよい。(p. 218)"
心をどこにも置かず全身に伸び広がるというのは、明晰な気づきが全身に広がっているということである。そのとき変化に応じた自由な行為がおのずと生まれてくる。心をどこにも置かないというのは、『金剛般若経』にある「無住」という概念に由来する。
沢庵はさらに「止る所なくして心を生ずべし」という。
"何事をするにもしようと思うと、そのすることに心が止まります。だからそこに心を止めずに、しようとする心を起こせ、というのです。しようとする心が起こらなくては、手も動かず、動けば、そこに心が止まる、心を生じてその事をしながら、それに止まることのないのを、その道の名人といいます。(p. 224)"
たしかに心が生じなければ動きは起こらないが、その心を無心の気づきのなかで見ながら、その心に止まらないで(手放して)行為するのである。この沢庵の教えのなかには、カルマ・ヨーガの高度な教えがふくまれていると言える。
ところで、クリシュナの教えは、観察や目撃にとどまるものではなく、さらにそれを超えて、純粋で非二元的(nondual)な気づきや観照そのものにまで及ぶものである。行為の観察者や目撃者になることは不可欠であるが、それはまだ中間地点であり、目的地ではない。クリシュナ自身は目撃者を超えた存在であり、非二元的な全一性を象徴している。目撃者になることはただの手段にすぎず、一時的な段階であり、最後にはそれすらも消え去るのである。
目撃や観察のなかで、目撃、観察されるものはたえず移ろい滅していき、最後には見るものと見られるものとのあいだに残る微細な二元性は崩れ去り、ただ対象なく見ているという純粋な観照だけが残る。見るものも見られるものも、ともに純粋な観照のなかに溶け去り、ただ気づいているという非二元的な気づきだけが残るのである。それがアートマンにほかならない。ラム・ダスは非二元について「結局、その主観的な気づきのなかに漂うと、気づきの対象は消え去っていき、あなたは霊的な〈自己〉、アートマンに入っていく。それは純粋な意識、喜び、慈悲、一なるものである」(Ram Dass, 2014, p. 36)と述べている。
...つづく
*TAO LABより
こちら参考図書でこの機会にあげておきます。
"誰によって、いつ書かれたかは定かではないが時を経て愛され、読みつがれてきたアシュターヴァクラ・ギーター。アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の教えの神髄をシンプルに表したもっとも純粋な聖典。"
『アシュターヴァクラ・ギーター 』
余談ですが、この本の訳者は高校+大学と同級生だった福間巌さん。まさか、彼も自分も、将来、こんなカルマヨガ(インドの聖典に関わること)を行うなんて当時は思いもよらなかったと...人生とご縁は面白いものですね〜:)