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ホリステック・ライフに向けて by 中川吉晴
「行為」の道とは何か -『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- vol7
*TAO LABより
同志社大学Well-being研究センターから2021年3月29日に小冊子『ウェルビーング研究 3』が発行されました。
その冊子には当社刊『神の詩 バガヴァッド・ギーター』を引用しながら同志社大学社会学部教授の中川吉晴先生の"「行為」の道とは何か-『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- "という論文が掲載されています。
その論文を中川先生及び同志社大学Well-being研究センターのご厚意によりここに転載させていただけることとなりました。
ありがとうございます。
章単位ごとに12回に分け、連載させていただきます。
今回は7回めです。
では、今此処にいながら中川先生とともに時空を超えたギーターの旅をお楽しみください。
*7 カルマ・ヨーガはいかにして可能か
以上、カルマ・ヨーガについていくつかの見解を見てきたが、ラム・ダスは、カルマ・ヨーガの道を歩むカルマ・ヨーギを、つぎのように定義している。
"カルマ・ヨーギというのは、ダルマに則った行為が何かを聞き取り、結果に執着することなく活動し、その間ずっと自分は行為者ではないと知っており、そのように自分の人生を用いて神へと至る人のことである。これが私たちの人生を転換し、それを霊的な実践にする定式の全体像である。(Ram Dass, 2004, p. 67)"
また、カルマ・ヨーガについて、つぎのように述べている。
"カルマ・ヨーガとは、無活動によってではなく、行為に対する見方を変えることによって、私たちを混乱にみちた生から引き出す技法であることが、はっきりする。私たちの行為は、もはや欲望をみたすための手段ではなくなる。いまやそれは霊的実践の機会となる。つまり、結果に執着しない実践、私たちが何かをしているという考えを取り除く実践である。私たちは、なすことをなす。そしてたえず、それはただカルマの輪、神の戯れの踊りにすぎず、法則が私たちをとおして法則的に展開しているのだということを認識している。私たちの途方もない自我中心性だけが、自分がそれをなしていると思わせるのだと、わかっている。(p. 70)"
カルマ・ヨーガでは、行為の結果を追い求めるのではなく、行為そのものに専心することが説かれる。行為に専心しているとき、それはグナゆえに引き起こされる自然な働きであり、行為者としての「私」が行為をしているのではない。
しかし、行為者意識や行為の結果への執着は根強く存在するものであり、それらから解放されることは、いかにして可能になるのだろうか。行為者から離れ、結果にとらわれることなく行為に専心することを可能にするのは、ただ無自覚に自動的に行為をなすことなく、行為をよく意識化し、行為連関から離れて行為を見るということである。行為の目撃(witness)や観察(observation)が、そこに生じるということである。行為の結果に執着しないということについて、ラム・ダスはつぎのように述べている。
"執着から自由になるひとつの方法は、目撃する意識(witness consciousness)を培うことであり、あなた自身の生の中立的な観察者になることである。あなたのなかの目撃する場所とは、単純な気づきのことであり、あなたのなかで、あらゆるものに気づいている部分のことである――ただ気づき、見て、判断することなく、ただそこに存在し、いまここにある部分のことである。
目撃は実際のところ別の意識レベルである。目撃は、あなたの通常の意識と並んで、別の意識層として、あなたのなかの目覚めている部分である。人間には、二つの意識状態に同時にあることができるというユニークな能力がある。......
目撃は、あなた自身の思考、感覚、感情に気づいている意識である。目撃するとは、朝、目覚めて、鏡のなかをのぞき込み、自分自身に気づくようなものである――判断や非難をすることなく、ただ目が覚めたということを中立的に観察しているということである。この一歩下がるプロセスは、あなたの体験や思考、感覚的インプットに没入していることから、あなたを連れ出し自覚へと導いてくれる。(Ram Dass, 2014, p. 36)"
ヴィヴェーカーナンダも、行為に巻き込まれることなく、傍観者や目撃者になることの重要性について述べている。この点はまた、シュタイナー(2017)によっても、クリシュナの教えの核心として指摘されている。「人間は行為する。しかし同時に、その行為を見ている者もその人間の中にいる。その見ている者は、行為にはまったく関わらない」(p. 96)。賢者は行為のなかにあっても行為にかかわらず、行為から超越している。「私は行為する。しかし私は成り行きにまかせている。なぜなら自分のやったことなのに、まるで別の誰かがやったかのような態度をとり、行為の結果生じる喜びや苦しみには、無関係な態度をとるとき、人は賢者になるのだから」(p. 96)。クリシュナの教えとは「自分を行為から超越させよ」(p. 98)ということである。シュタイナーはつぎのように述べている。
"「私は私の行為〔複数〕を行う。しかしその行為を私がやるのか、別の誰かがやるのかは、どうでもいい。私は自分の行為を、そのように見ている。私の手がやったこと、私の口が語ったこと、それを私は、山肌の岩がはげ落ちて、谷底へ落ちていくのを見るときと同じように、客観的に見ている。私はそのように自分の行為に向き合っている。こうして私があれこれのことを認識するとき、世界についてあれこれの概念を作るとき、私はそういう概念とは異なる何かであり続けている。私が言いたいのはこういうことだ。――私の中で、何かが私と結びついて生きている。その何かが認識している。しかし私は、私の中でその何かが認識しているのを観ている。そのときの私は、私の認識からも、自分の行為からも自由になっている。自分の行為から、自分の認識から自由になりうること、そこに賢者の高い理想が現れている。
......私は観察しつつ、自分の道を進む。私が関与している事柄においても、本当の私は関与していない。なぜなら、私は観察者になっているのだから。」
以上がクリシュナの教えです。(pp. 98-99)"
ラム・ダスも同様の点を明確に述べている。
"あなたのなかで働いている自然の法則を見ることができるようになるまで、あなた自身の生、あなた自身の行為を、離れたところから興味をもって観察しなさい。そうすれば、何が怒りになるのか、何が愛になるのか、何が欲望になるのかがわかる。それらすべてを見るのだ――それにとやかく言うのではなく、それを判断するのではなく、ただそれを見るのだ。あなたがそうした視点を発達させはじめると、あなたの行為がしだいに執着から起こらなくなり、ものごとの単純で法則的な流れから生じるようになることがわかる。(Ram Dass, 2004, pp. 63-64)"
カルマ・ヨーガにおいて重要なのは、行為にありのままに明晰に気づくことである。行為を観察するなかで、行為が諸条件の重なりのなかで生まれることがわかる。こうした観察を、ラム・ダスは「非個人的な目撃(観照)」(impersonal witness)と呼ぶ。
"それこそが、私たちが培おうとしているものである。目撃は、いま体験しているものに対してまったく異なる質を有している――それは観察することであり、非難することではない。非難を投げかける超自我は、その瞬間に活動することと相容れない。非個人的な目撃は、その瞬間に活動することの本質である。(p. 70)"
個人にさまざまな執着が残っていても、理解が深まってくると、行為における「非個人性」が増大してくる。
"......非個人性。巻き込まれることが減り、それをロマンチックなものにすることが減り、メロドラマが減り、行為者が減る。私たちは自分の生をおくり、それを可能なかぎり完璧に生きるが、もっと離れた仕方でそれを生きるようになる。私たちは動機や欲望から行為することが少なくなる――悟りといった高尚な動機ですら、そうである。私たちはただそうするのが自分のダルマなのだから行為するのである。これがカルマ・ヨーガの本質である。(p. 72)"
...つづく
*TAO LABより
「シュタイナーとギーター」...についてはこの書籍が参考となります。
*高橋巌先生
日本の美学者。日本人智学協会代表。元慶應義塾大学文学部教授。
日本におけるルドルフ・シュタイナー研究の第一人者。1970年代からシュタイナーの人智学(Anthroposophie)を紹介するために著作・翻訳・講演活動を始めるようにな、1985年に日本人智学協会を創立する。
90歳を超え、年輪を重ねてなおますます意気盛んな高橋先生の翻訳本です。
やはりこれらの著作でも高橋先生の希望で当社刊『ヴェガバットギーター 神の詩』田中嫺玉さんの翻訳を引用転載していただいております。
先生、ますますお元気でお過ごしください!