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ホリステック・ライフに向けて by 中川吉晴
「行為」の道とは何か -『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- vol11
*TAO LABより
同志社大学Well-being研究センターから2021年3月29日に小冊子『ウェルビーング研究 3』が発行されました。
その冊子には当社刊『神の詩 バガヴァッド・ギーター』を引用しながら同志社大学社会学部教授の中川吉晴先生の"「行為」の道とは何か-『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- "という論文が掲載されています。
その論文を中川先生及び同志社大学Well-being研究センターのご厚意によりここに転載させていただけることとなりました。
ありがとうございます。
章単位ごとに12回に分け、連載させていただきます。
今回は11回めです。
では、今此処にいながら中川先生とともに時空を超えたギーターの旅をお楽しみください。
*11 道はさまざま
『バガヴァッド・ギーター』のなかでは、いくつものヨーガがとりあげられている。カルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガが中心であるが、その他のヨーガも広くとりあげられており、各章にそれぞれひとつのヨーガが描かれていると指摘されるほどである(Maitra, 2018)。知識、信愛、瞑想、放棄、離欲など、いくつもの異なるヨーガがとりあげられ、すべてが認められている。
よく知られているように、シュリー・ラーマクリシュナはみずからの体験によって、いくつもの道を例証したが、その弟子のヴィヴェーカーナンダは、ギーターに登場するジュニャーナ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガに加えて、パタンジャリが体系化したラージャ・ヨーガ(王の瞑想のヨーガ)の四つを代表的なヨーガとしている(Vivekananda, 1984, 1986, 1987)。のちにゴラクナートによってハタ・ヨーガ(タントラ・ヨーガ)がつくりだされることになる。またシュリー・オーロビンドは、みずからもクリシュナ信仰に生き、ギーターの翻訳や論考を残しているが、「インテグラル・ヨーガ」(integral yoga)を提唱し、さまざまな道を統合することを求めている(Aurobindo, 1976, 2004, 2006)。
クリシュナの教えは多次元的であるがゆえに、多くの道をふくんでいる。クリシュナはどれかひとつの道だけを強調しているのではない。クリシュナにとっては、どの道を通っても同じ目的地にたどり着くのであり、人は各自の資質に合ったヨーガに従うことができるのである。あるひとつの道のみを強調する一次元的なアプローチは、えてして生のその他の面を認めず、排他的な完全性を求めるのに対して、多次元的なアプローチは生のあらゆる面や方向性を受け入れるものである。このように、クリシュナは、あらゆる種類の人がその人の本性に従ったどんな方向からでも至高なるものに到達することができるようにしたのである。
注目すべきことに、『バガヴァッド・ギーター』は個人の資質の違いについて、三つのグナにもとづくタイプ論を展開している。三つのグナとは、プラクリティ(物質自然)を構成する三要素、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)であり、サットヴァ〔サットワ〕は光輝や清らかさ、ラジャスは欲望や執着や激情、タマスは迷妄や無知を意味する。ギーターのなかでは、多くの項目をめぐって三つのグナが対比される。たとえば信仰については、こう述べられている。
サットワの影響下にある者たちは
諸天善神を礼拝し
ラジャスの者たちは魔神 鬼神の類を拝み
タマスの者たちは死霊や幽鬼を拝む
(17: 4, p. 254)
修行について、三つのグナの特徴は以下のように言われる。
体 言 心の三種の修行を
清らかな信仰を持つ人々が
報果を求めずに行うときに
これをサットワの修行と言う
(17: 17, p. 258)
自尊心を満足させ 名誉を得るため
衆人の尊敬や崇拝を受けようとして行う
禁欲や苦行はラジャスのもの――
これは不安定で長続きしない
(17: 18, p. 258)
無知 愚昧の者がする苦行は
いたずらに自分自身を傷つけ苦しめ
他者をも害し破壊する
これをタマスの苦行と言う
(17: 19, p. 259)
霊的修行においても、また他の面でも、サットヴァがもっともすぐれた位置にある。カルマ・ヨーガはまさしくサットヴァの行為である。
愛着もなく 憎悪もなく
その仕事に執着せず
その報果も求めない行為――
これはサットワの行為である
(18: 23, p. 272)
結果を期待しない行為がサットヴァであり、自分の欲望をみたそうとするのがラジャス、迷妄に陥っているのがタマスである。しかし重要なのは、サットヴァが修行のゴールではなく、それもまた超越されなくてはならないということである。サットヴァはあくまでもプラクリティに属し、プルシャではないからである。
全ての行為は自分がするのではなく
物質自然の三性質の作用にほかならぬ事を知り
その上に至上主の実在を正覚した者は
この三性質を超越してわたしのもとに来る
(14: 19, p. 227)
三つのグナは、いずれもそれに拘束されてはならず、超越されなくてはならない。グナを超越した視点から、あらゆる活動は単にプラクリティの働きであるということを見なくてはならない。三つのグナについて知ることは、そこから独立するための手段なのである。
シュタイナー(2020)はヘルシンキ講義のなかで、つぎのように述べている。「基本的に、当時のアルジュナを取り巻いている環境からアルジュナの魂を独立させ、解放するのが、クリシュナの課題でした」(p. 225)。環境は三つのグナによって構成されている。
"人間はこの三つに区分される。自分の霊と魂を外的な事情に結びつけて生きている人たちは、この三つのグループのどれかに属している。しかしお前は、自己意識の始まる時代を眼の前にしている。お前は自分の魂を独立させなければならない。お前はサットヴァ人間でも、ラジャス人間でも、タマス人間でもあってはならないのだ。(p. 227)"
このように「バガヴァッド・ギーターのクリシュナは、独立した人間自我の偉大な教師となっています」(p. 227)。
シュタイナー(2017)はケルン講義のなかで重要な発言をしている。「こうして三つのグナのすべてを脱ぎすてた人は、外的な形態との一切の関係から離れたのです。そのとき、その人は魂の中に偉大なクリシュナが何を育てようとしているのか、納得できるようになります」(p. 101)。クリシュナの教えの核心は、プラクリティによって構成される「外的な形態」を理解したり、自分と外的形態との関係を理解したりすることにあるのではなく、そうした形態を端的に超越することにある。そのとき「そもそもそういうすべては存在していないということ、そのことを認識するのです。そのことが眼の前に現れるのです」(p. 102)。では、外的形態から区別される何があるというのか。ここでシュタイナーは「本性」があらわれるという。
"人が自分の本性として認識するもの以外には何もありません。なぜなら、外界に存在するその他一切のものは、これまでの諸段階で、すべて脱ぎすててしまったのですから。(p. 103)"
それにつづけて「本性」とは何かと問う。
"この自分の本性とは何なのでしょうか。クリシュナ以外の何ものでもありません。なぜならクリシュナ自身が私たち自身の最高のものの表現なのですから。つまり、私たちは、最高のものに向って働くとき、クリシュナに向き合うのです。(p. 103)"
人間の本性はクリシュナにほかならないというのである。「ミクロコスモスに対するマクロコスモスとして、小さな日常の人間に対する人間そのものとして、今、クリシュナが立っています」(p. 104)。人間の前に恩寵としてあらわれるクリシュナは、神として「クリシュナの最高の本性の姿」をあらわす。それはマクロコスモスとしてのクリシュナである。「本当に私たちは宇宙の一大秘密の前に立っているのです。なぜなら、アルジュナは自分の前に自分自身の本性がからだをもった者として立っているのを見ているのですから」(p. 115)。シュタイナーは、この宇宙の深遠な秘密を知るには、通常の理解力ではなく「畏敬の念」が必要であるという。
"バガヴァッド・ギーターの語る宇宙の秘密に近づくためには、畏敬の念がなければならないのです。その秘密を畏敬の心で感じとることができたときが、その秘密を完全に把握したときなのです。(p. 124)"
畏敬の念は、存在の神秘にふれることのできる霊的な感受性であり理解力である。
一方、シュタイナー(2020)はヘルシンキ講義のなかで、三つのグナから自由になることを指摘したのち、クリシュナの教えの本質が自己発見にあるという。「クリシュナ信仰とは、もっぱら個々の人間、個人に関わる事柄です。個々の人間が本来の人間にふさわしい存在になっていくための努力にほかなりません」(p. 238)。そのために自己意識を外的な諸状態から解放しなくてはならない。
"どうぞ、クリシュナの教えの根本にあるものに眼を向けて下さい。外にある諸状態の中で生きている自意識をすべての「タット」から、つまりさまざまな生活状況から解放して、自己をより高次の完成へ導いていくのです。もっぱら自己だけを頼りにする、というのがクリシュナの教えの根本です。
一切の外的な事情から離れて、自分を自由に、ますます生きいきさせるのです。クリシュナの教えである自意識の育成は、人間が自分の環境から自由になり、外の事情にとらわれることなく、自己の完成だけを志すことによってのみ、可能になります。(pp. 238-239)"
シュタイナーの考えでは、クリシュナの課題は、古代において未発達であった自己意識の進化をもたらすことであったが、現代において「自己意識は路上にいくらでも見出せます」(p. 234)という。しかし、現代人の自己意識は孤立し、疎外されたものになっている。シュタイナーはここにおいて、キリストを、内なる世界と外の世界とを結び合わせ、救済する存在として見ている。
...つづく
*TAO LABより
ギーターが繋いでくれている余談です。
今回も中川先生より引用されているシュタイナー〜Vol.7でもご紹介しましたが、日本で彼を体系的に紹介し続けているのは人智学協会の高橋巌先生です。
本日、日中、はじめて高橋先生のお話を聴く機会と交歓を持てました。先生、ありがとうございます。
先生とのご縁はこの書籍をとおしていただきました。
■ シュタイナー根源的霊性論:バガヴァッド・ギーターとパウロの書簡
■ バガヴァッド・ギーターの眼に見えぬ基盤
あらためてご紹介させていただきますした。