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ホリステック・ライフに向けて by 中川吉晴
「行為」の道とは何か -『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- vol5
*TAO LABより
同志社大学Well-being研究センターから2021年3月29日に小冊子『ウェルビーング研究 3』が発行されました。
その冊子には当社刊『神の詩 バガヴァッド・ギーター』を引用しながら同志社大学社会学部教授の中川吉晴先生の"「行為」の道とは何か-『バガヴァッド・ギーター』を読み解く- "という論文が掲載されています。
その論文を中川先生及び同志社大学Well-being研究センターのご厚意によりここに転載させていただけることとなりました。
ありがとうございます。
章単位ごとに12回に分け、連載させていただきます。
今回は5回めです。
では、今此処にいながら中川先生とともに時空を超えたギーターの旅をお楽しみください。
*5 クリシュナの三つの教え
冒頭のシーンのあと、クリシュナはアルジュナを説き伏せ、戦いに向かわせることになる。しかしアルジュナは容易に納得しないため、ギーターの全編をつうじて、クリシュナは教えを説きつづけ、みずからの真の姿をあらわし、救いの手を差し伸べる。『バガヴァッド・ギーター』の第2章から、クリシュナはアルジュナの嘆きに直接答えていく。まず「アルジュナよ 世迷い言を言うな!およそ/生命進化の意義を知る者の言葉ではない」(2: 2, p. 31)と、アルジュナを一喝する。しかし、アルジュナの悩みは深く、「私は戦いません」と黙り込むばかりである。これに対しクリシュナは三つの論点をあげて、アルジュナが戦うことを求める。
しかし、ここでクリシュナは、アルジュナが単に戦うようになるといった、外の世界での出来事を目的としているのではない。クリシュナはその教えをとおして、アルジュナが内面に眼を向け、霊的に成長をとげ、現実社会にありながらも、それを超越した存在へと変容することを求めているのである。それは、アルジュナがみずからの神的基盤に目覚めるということである。クリシュナは霊的教師として、アルジュナに対し高次の霊的世界への参入を促し助けているのである。
最初に人間の存在構造についての「知識」(サーンキヤ)が示される。これは伝統的な人間理解をふまえたものであり、そこでは、人間における肉体、物質的な面に対し、永遠不滅の霊的次元が際立たされる。肉体は生滅するものであるが、霊的次元は決して死ぬことのない本質であり、アートマンやプルシャと呼ばれる。
君は博識なことを話すが
悲しむ値打ちのないことを嘆いている
真理を学んだ賢い人は
生者のためにも死者のためにも悲しまない
(2: 11, p. 34)
わたしも 君も ここにいる全ての人々も
かつて存在しなかったことはなく
将来 存在しなくなることもない
始めなく終わりなく永遠に存在しているのだ
(2: 12, p. 34)
変化し、殺し殺されるのは肉体だけである。
全ての生物は永遠不滅であり
その実相は人智によっては測り難い
破壊され得るのは物質体だけである
故にアルジュナよ 勇ましく戦え!
(2: 18, p. 36)
生物が他を殺す また殺されると思うのは
彼らが生者の実相を知らないからだ
知識ある者は自己の本体が
殺しも殺されもしないことを知っている
(2: 19, p. 37)
魂にとっては誕生もなく死もなく
元初より存在して永遠に在りつづけ
肉体は殺され朽ち滅びるとも
かれは常住にして不壊不滅である
(2: 20, p. 37)
ブリターの息子 アルジュナよ
このように魂は不生不滅 不壊不変である
どうして誰かを殺し
また誰かに殺されることがあり得ようか
(2: 21, p. 37)
ここでは魂の不滅、常住が説かれている。肉体は生まれては死にゆくものであり、これは肉体にとっての必然である。しかし、たとえ戦いで殺されることがあろうとも、それによって魂が消失するのではない。もとより、私たちの社会でこうした理由から殺害が正当化されることはないが、むしろここでのアルジュナの問題は、彼が人間の物質的な面しか見ておらず、人間について不完全な理解にとどまっているということである。その意味でアルジュナの「知識」は曇らされている。
インドを代表する神秘家であったラマナ・マハルシ(Ramana Maharshi, 1879-1950)は、ギーターに関する質問に答えて、自己を身体と同一化する誤りについて述べている。
"あなたの親族の殺害をするのは、あなたの身体である。では、あなたは身体なのか。いやそうではない。それならなぜ、あなたはそれに束縛されるのか。そのような考えを放棄しなさいとクリシュナは言ったのだ。これが意味するのは、クリシュナはアルジュナになすことを求めるが、それをなしているのは彼であるという感覚を捨て去るように求めているということだ。個人が努力すべきは、このことである。自分が身体であるとか、ないとかという感覚は、自分自身の無知からくる。ただそうした感覚を捨て去ればよいのだ。(Nagamma, 2006, p. 414)"
ラマナ・マハルシによれば、身体は身体であるにすぎない。身体を自己(行為者)と同一視することが根本的な無知なのである。
第二の論点は「義務」(ダルマ)に関するものである。ヒンドゥー社会では各ヴァルナ(カースト)および各ジャーティ(コミュニティ)に定められたダルマがある。このダルマ(義務、定め)を果たすことは社会秩序を維持していくうえで不可欠なこととみなされていた。
生まれたものは必ず死に
死んだものは必ず生まれる
必然 不可避のことを嘆かずに
自分の義務を遂行しなさい
(2: 27, p. 39)
武士階級の義務から考えても
正義を護るための戦いに
参加する以上の善事はないのに
どこに ためらう必要があるのか
(2: 31, p. 41)
アルジュナはクシャトリヤ階級の武人であるため、その義務は戦うことである。戦わないなら「義務不履行の罪を犯すことになり/ 武人としての名誉を失うのだ」(2: 33, p. 41)。クリシュナは、不名誉の汚名は耐えがたいことではないかとアルジュナを諭す。そして「ただ義務なるが故に戦うならば/ 君は決して罪を負うことはない」(2: 38, p. 43)という。このようにギーターは、所与の義務や行動規範をそのまま肯定する。「自分に生来与えられた仕事をして/ すべての人は完成に達する」(18: 45, p. 279)というのである。
自分の義務が完全にできなくても
他人の義務を完全に行うより善い
天性によって定められた仕事をしていれば
人は罪を犯さないでいられる
(18: 47, p. 280)
ところで、これはヒンドゥー教の文脈から離れて言えば、たんに与えられた義務に従うということ以上のことを意味していると考えられる。すなわち、ダルマに従うというのは、人がみずからの本性を想起し、それを実現するべきだということを意味していると解釈できる。クリシュナが求めているのは、私たちが自分とは別の何者かになるように努力すべきだということではなく、むしろ反対に、自分が誰なのかを思い出し、その本性に従うということである。
これまでの二つの論点は因習的な立場を踏襲したものであるが、霊的成長にとっては不十分である。なぜなら、ここでクリシュナ独自の教えとして、第三の論点、すなわち「行為」(カルマ)に関する深遠な教えが新たに提起されるからである。ここで、行為をなすにあたって、行為の結果を動機とすることなく行為に専心することが説かれる。「結果を期待せずに働くことによって/ 君はカルマから解放されるのだ」(2: 39, p. 43)。知性を備えた行為とは、行為が束縛(業を生みだすもの)となることなく、解脱(モクシャ)となるような行為である。行為はここで日常次元を離れ、モクシャの文脈に移し入れられる。通常の行為であっても、霊的成長に貢献するものとなるというのである。
つぎの一節は、カルマ・ヨーガの原理を述べたものとして有名である。
君には 定められた義務を行う権利はあるが
行為の結果については どうする権利もない
自分が行為の起因で 自分が行為するとは考えるな
だがまた怠惰におちいってもいけない
(2: 47, p. 46)
上村勝彦氏(1992)の訳文では、この詩節は「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ」(p. 39)となっている。行為をしながらも特定の結果を期待せず、何が起ころうと成功や失敗といった判断をせず、それらを平等に見て執着することなく、行為をただ行為のためだけになすのである。
アルジュナよ 義務を忠実に行え
そして 成功と失敗を等しいものと見て
あらゆる執着を捨てよ
このような心の平静をヨーガと言うのだ
(2: 48, p. 46)
そのとき行為は束縛となることなく、業(カルマ)を生じさせることはない。
知性が真理と合一した人は
行為の結果を捨てることによって
生と死の束縛から解放され
無憂の境地に達するのである
(2: 51, p. 47)
ギーターは、ほかならぬ日常の行為がそのまま解脱への通路となることを示している。ここにはまったく新しい霊的修行の道がある。ゴンダ(2002)はつぎのように述べている。
"バガヴァッド・ギーターは、正常な生活を営む人間に一箇の道徳を与える。社会に生活し、またそれぞれの理由から社会での営みを続けなければならない人々に過重なものを課すことなく、生活と活動の基礎を与え、同時に解脱への見通しを与える。......バガヴァッド・ギーターの教えのこの部分にこそ、この詩篇がもつ迫力と成功の秘訣の大半が存しているのである。(p. 187)"
私たちはいま自分が携わっていることから出発することができ、その行為へのかかわり方を変えることによって、行為が究極の解放のための方途となる。これがカルマ・ヨーガの道である。
しかし、アルジュナはカルマ・ヨーガの教えを納得できないのか、「クリシュナよ 果報を求める行為より/ 知性を磨く方がよいのなら/ なぜ私に このような恐ろしい/ 戦いをせよと言われるのですか」(3: 1, p. 57)と尋ねる。ここでクリシュナは、行為そのものがなくなることは決してないということを強調する。
好むと好まざるとにかかわらず
物質自然[プラクリティ]の性質[グナ]から来る推進力で
ただの一瞬といえども
活動せずにはいられないのだ
(3: 5, p. 58)
神であるクリシュナもたえず活動し、世界を維持しているのであり、行為は、行為をしないことに勝っている。クリシュナの教えは、行為をすることへと向かい、迷うことなく行為義務を果たすことを求める。
定められた義務を仕遂げる方が
仕事をしないより はるかに善い
働かなければ 自分の肉体を
維持することさえできないだろう
(3: 8, p. 59)
ギーターは世俗生活を営むアルジュナに向けられているため、仕事の放棄を伴う出家遊行の修行よりも(ただし出家遊行の道が否定されているわけではない)、日常の仕事に専念することを強調する。
仕事の放棄も 奉仕活動も
ともに人を解脱へと導く
だが この二つのうちでは
奉仕活動の方が勝っている
(5: 2, p. 91)
ただし、それは無執着のなかでなされなくてはならない。
故に仕事の結果に執着することなく
ただ為すべき義務としてそれを行え
執着心なく働くことによって
人は至上者のもとに行けるのである
(3: 19, p. 63)
さらに重要なことに、行為の結果に執着しないということは、結果を神にゆだねることと結びつけられる。
おお富の征服者 アルジュナよ
奉仕の精神で 仕事の報果を期待せずに
全ての結果を至上者に委ねて活動せよ
報果を期待して働くのは哀れな人間である
(2: 49, p. 47)
全智者にすべてを一任した人は
既に現世において善悪の行為を離れる
故にアルジュナよ ヨーガに励め
これこそ あらゆる仕事の秘訣なのだ
(2: 50, p. 47)
仕事を至上者への供物としなければ
仕事は人を物質界に縛りつける
故にクンティーの息子よ 仕事の結果を
ただ至上者へ捧げるために活動せよ
(3: 9, p. 59)
このように、カルマ・ヨーガはバクティ・ヨーガと結びつけられる。バクティについては後ほどとりあげることとし、結果を期待せず、結果に執着しないで行為するとは、どのようなことを意味し、いったいどのようにして可能になるものであろうか。以下この点について、ラム・ダスを中心に幾人かの見解をとりあげて考察してみたい。
...つづく
*TAO LABより
このあたり、ギターの中でも大好きなところです。
中川先生のナビゲートのもと、じっくりお楽しみください!