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「真我への目覚め」岡潔 解説:横山 賢二
【33】 日本民族の使命
*講演日 :1967年12月6日 於 大阪市 北陵中学校
この頃の教育では、日本民族はつまらない民族で、前にやっていたことは、みな間違っているから、アメリカのようにやらなくてはいけないと教えているように見えるが、日本民族が真実、そんなつまらん民族なら、千年や2千年教えたところで、大脳前頭葉という道具は、それほど発育しやしません。
まして、その大脳前頭葉を使っていく心がそんなにきれいになるとは思われません。到底、千年や2千年の教育では間に合わない。教育がすぐ効果を上げようというのだったら、その民族は優れた民族でなくてはならない。但し、その優れ方に様々あるでしょう。だから、自分の優れたところに、早く目覚めるように子供を教えるのがよい。目覚めれば、あと力がついてやれます。
教育の方針は、国によって民族によって別であるべきだと思います。日本民族の場合、真我に目覚めやすいということが長所ですから、早く、真我に目覚めさすように教えなければいけない。大体、日本民族は優れた民族であるだけでなく、人類をその滅亡から救うという重い使命を担わされている。私達は何よりもそれを自覚し、そうであることに誇りをもたなければならないのです。でなくては、教育はできない、そう思います。
*解説33
私が若い頃は、ここで岡がいっているように「日本民族はつまらない民族で、前やっていたことは、みな間違っている」とほとんど全ての日本人が思っていたことは事実である。しかし、よくよく見てみると日本民族は、知らぬうちに世界の歴史を変える重要な役割を果しているのもまた事実ではないだろうか。
先ず西洋の中世からの植民地主義に、人類で初めて「待った!」をかけたのは明治維新の日本である。大東亜戦争ではみずから多くの血と涙を流した大敗戦と引きかえに、アジア、アフリカの永久植民地からの解放を「結果的」に実現したのも事実である。
更にこれも「結果的」にではあるのだが、経済学者ドラッカーがいうように米ソの人類を巻き込んでの軍拡競争では、日本はひとり蚊屋の外で経済的な「漁夫の利」を両陣営に見せつけることによって、米ソの軍拡競争の「空しさ」を悟らしめたことも事実であるし、最後に残された最大の使命は「人類を滅亡から救うこと!」であると岡はいうのである。
さて、この解説の終りに当って1つ付け加えたいことがある。実はほんの先日、岐阜県恵那市岩村で江戸時代の儒学者、佐藤一斎を学ぶ講演会に我が会の山本八満夫、岡本龍太両氏とともに参加してきたのだが、講演会のあと案内されて地元の名士が経営するという古民家風喫茶で食事をし、帰り際にご主人にあいさつをすると、何と岡潔にじかに会ったことがあるというのである。
ご主人は書の達人で佐藤一斎の書も店には掛かっていたのだが、岡とは何というご縁かとよくよく話を聞いてみると、その方神谷敏行さんは元大垣商業高校の教員で、昭和45年頃岡を学校に招き講演をしてもらったというのである。そして、あろうことか目の前で岡に書いてもらったという色紙まで持っているというのである。
早速その色紙を見せてもらうと、保存状態は非常によく今書かれたばかりに新しいのである。そこには「月は世々の片身」という珍しい文句が書かれてあった。そして、その講演会の面白いエピソードをいろいろと聞かせて頂いたのだが、神谷さんは最後にこういった。「この色紙は研究者であるあなたに贈呈いたします」と。
何と今では滅多に出てこない岡の直筆を、私は頂くことになったのである。実際、我が家にも岡の色紙は何枚もあるのだが、全て複製であって本物は1つとしてないのである。この色紙はいずれ国宝になるに違いない。
今回の出来事は、30年前に夜フト目が覚め岡亡きあとの岡家へ行ったのと同じように、私の5年にわたる岡潔解説が一応の完成をみた今、「ご苦労であった、岩村まで色紙を取りに来い」と岡に呼ばれたのではないかと私は思っている。
猶、岩村はゆるやかな棚田が広がる日本一と呼ばれる田園風景と、町全体が城下町の風情をそのまま残す素晴しいところであった。
更に更に、もう1つ付け加えたいことがある。実はこれも最近のことであるが、昭和のもう一人の「岡潔」が見つかったことである。
それは映画「海賊と呼ばれた男」で脚光を浴びるようになった、出光興産の創業者、出光佐三である。最近、その思想集が復刻されているのを見つけて読んだのであるが、晩年は「日本民族の世界的使命」を力説するなど、岡潔と考えが全く瓜二つなのである。
こんな人が昭和の時代にもいたとは、夢にも思わなかった。全く自覚した日本人である。しかも、艱難に突き進む会社経営の理想もさることながら、当時の一般常識にはとらわれず、日本人には珍しく素晴らしく柔軟な頭(前頭葉)を使う人なのである。
岡も当時、日本を代表する多くの著名人と対談したのだが、実のところ満足のいく対談は誠に少なかったのである。しかし、この人ならば肝胆相照して語り合ったことだろうし、それによって両者ともに大いに勇気づけられたに違いないのである。
実際同じ時代に生きながら、すれ違ったことは誠に残念である。しかし、同じ時代に二人いたことの方が、より大きかったのではないだろうか。両者の名前からしても、それは伺えるのであって、岡潔とは「潔い山」、つまり「秀麗富士」であるといえるのであるが、出光とはそこから昇る「初日出」を私は連想するのである。
これを書き終えて、私もやっと正月を迎える気分になった。来年は2月に「岡潔の生涯」についてのテレビドラマも予定されているし、どんな年になるのか楽しみである。