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「真我への目覚め」岡潔 解説:横山 賢二

【29】 創造と工夫考案

*講演日 :1967年12月6日 於 大阪市 北陵中学校
だから、よくこのおれ、、が、おれ、、がという感情があると、クリエーション、創造がよく働くと思う人が多いようですが、あれは創造でない。工夫考案であって、それは側頭葉でできる。しかし、そこまでです。生み出すという働きは、前頭葉でなければできない。創造は、そんなものが働いてはできないものです。

 よく言うのですが、私、数学の研究に打ちこんでいる時は、虫も動物も殺さない。植物も若草の芽も踏まない。そんな心になるのは、無差別智が真我に働くからです。こう言っても、それはあなたの主観で確かめようがないと言うでしょう。確かめようのあるところを1つ言いましょう。

 非常な高僧は別ですが、普通の人で無差別智がよく働く時期は、人の一生のうちで生まれて3ヵ年間です。私は、これを童心の時期と言っています。人は、この3ヵ年の間に家庭という環境から、そっくりそのままとって自分の中心を作る。だから、その間、家庭という環境を本当によくするようにせよ、というのが医学の注意ですが、そんな大したことを何がするのかというと無差別智がする。

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*解説29
2017.11.09up
 日本人は商品を作る面でも、仕事の能率を上げる面でも、いろいろと工夫を凝らすのが上手である。それは濃やかな「情」の働きの結果であって、日本の産業の優位性はそんなところからきているのだが、間違えてはいけないことはそれは「工夫考案」であって「創造(独創)」ではないと岡はいう。

 いってみれば「工夫考案」は一定の条件のもとで次第に改良を加えていくものであって、次元を飛びこえて発見する「創造」とは別のものである。だから「機械の座」である「側頭葉」でできるのである。戦後アメリカの影響を受けて「能率」や「効率」とよくいったものだが、あれも「側頭葉指数」ということである。

 特に若い人にいっておきたいのだが、なにか突飛なことや一風変わったことを思いつくままに発表することが「創造」だと思われている節があるのだが、岡にいわせればそんなものは「創造」ではない。直ぐに飽きてしまうものや奇をてらっただけのものは、真の「創造」の対象には入らないからである。

 真の「創造」とは長い年月をかけて人々の心の中に培われた文化の内容、つまり伝統の中にある「エキス」を抽出するものである。だから岡が芭蕉や道元に学んだように、歴史や伝統に学ばなければならないのである。しかし、気をつけなければいけないことは、それは「エキスを抽出」するのであって、「形」を真似るのではない。今はその伝統の「形」を真似ることの方に傾いているのである。


*岡潔思想研究会
http://www.okakiyoshi-ken.jp/index.html

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