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「真我への目覚め」岡潔 解説:横山 賢二
【24】 側頭葉と前頭葉
*講演日 :1967年12月6日 於 大阪市 北陵中学校
どんなふうにわかったかといいますと、自然が人に伝わるのに2段階ある。最初は大脳側頭葉に伝わる。それは感覚としてわかるのです。自然とか人の世とか、外界が伝わるのに最初は感覚としてわかる。そして、その次に大脳前頭葉で受け止める。この大脳前頭葉は、感情、意欲、創造の働きをする。創造とは、クリエートするという働きです。
普通、人が自分と思うのは小我、つまり肉体とその機能と申しましたが、もっとはっきり言いますと、自分の肉体、自分の感情、自分の意欲、それを自分と思う。それで非常に自我が強いと、自分の感情、自分の意欲という、その小さな感情、意欲が強くて、大脳前頭葉はそれで満たされてしまう。そんなところには人の世や自然のような大きいものは映らない。外界が伝わるのは、感覚までで止まる。欧米人は、自我が非常に強いからそうなる。
ところが日本人は ― 明治までの日本人は特にそうですが ― 真我が自分だと思ってれば、もちろん、自我なんてありませんし、そうでないにしても自我は非常に弱い。それで、大脳前頭葉にまで外界が伝わりうる。伝わりうる場合は、第2段階として大脳前頭葉で受けとめる。そうすると情緒になるのです。情緒というのは、時として、非常に強い印象を与える。
*解説24
2017.11.09up
現在の脳科学ではいまだに特定してはいないのだが、側頭葉は機械の座(コンピュータールーム)であり、前頭葉は自我意識の座と岡はいう。そして、ここでは側頭葉は外界を「感覚」として受け取り、前頭葉は一格高い「情緒」を受け取るところという風に別けている。
しかし、この時点では大脳の後ろ半分の頭頂葉と後頭葉の解明に岡はまだ十分には至っていないため、この結論には私は少し異和感を覚える。
それよりも数学の研究などにより、前頭葉は内心と外界を映しだすスクリーンであるというのが岡の持論であるが、そのスクリーンが自我の感情、意欲の汚れによって満たされると、いたずら書きをした黒板のように「情緒としての外界」がよく映らないと岡はいいたいのだろう。
日本人は本来前頭葉の自我が非常に薄いため、黒板がきれいなように「情緒としての外界」が前頭葉によく反映するというのである。ただしかし実際は、「情緒」のありかは前頭葉ではなく後頭葉である、という考え方に後々変わってくるのも事実である。
参照・講演録(18)の19