MAGAZINEマガジン
「真我への目覚め」岡潔 解説:横山 賢二
【18】 1票を投ずる義務
*講演日 :1967年12月6日 於 大阪市 北陵中学校
気づいてみればそうです。そんなことせず、ただ、「たとえ自分が幸せであっても人が不幸であれば、自分は真から幸せとは思えない、それが人である。その傾向が強ければ強いほど真の人である」と、こう二言教えればそうなるのに。どうすれば良いか、どちらへ努力すれば良いか、全てわかってしまう。それで終りです。それを、そうとは決して教えない。
アメリカはキリスト教があって緩和している。〝汝の隣人を愛せよ〟というから、隣の人が不幸であって良いとは思わない。といって、果たして、それで人道へ止まれるかどうか。が、みすみす、畜生道にはならない。ところが、日本は、随分アメリカの真似をしているが、そのキリスト教だけ抜いてある。真似するなら、みんな真似しなきゃならない。都合の悪いところはみな抜いてある。それで得々としているのだから、いかに知的訓練を経ていないといえ、なんという愚かなことだろうか。
選挙なんかでも、自分の幸せのために1票を投ずる権利があるということを言っている。何ということですか。みんなの幸せのために1票を投ずる義務があるというならわかる。それなら人ですが、先のでは畜生です。畜生道へ近づいてくるとどうなるか。デューイの言ったように、快、不快によって判断する。
*解説18
2017.11.09up
今や民主主義も劣化した。選挙でも投票率が低い。何とかしなければとの声がある。明治以来、選挙権を民衆が勝ちとってきたのが民主主義の歴史のはずである。
しかし、今やその折角勝ちとってきた選挙権を、自ら放棄する人が増えたのである。その理由を尋ねてみると、現実の政治が相変わらず良くならないからというのである。
今はその原因を制度改革に求めて、1票の格差是正とか若者への選挙権の拡大とかに躍起になっているが、そんなことでは問題は解決しないと思う。
この戦後さかんにもてはやされた「権利」とか「人権」とかいう言葉は、実は「小我の」という言葉が抜けているのである。本来「権利」とは真我(無私の心)の人を守るのが目的のはずなのだが、いつのまにか「小我の権利」にすり変っているのである。つまりあの当時、利己主義の人ほど「権利」を主張したのである。
だから問題なのは本当は「権利」か「義務」かではなく、「真我」か「小我」かが問題なのであって、西洋によろめいてそのことに気づかないマスコミや知識人がいまだに多いのである。それで岡は真我(無私の心)の価値観を持ちだしてきて、「1票を投じる義務がある」と言い直したのである。