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「真我への目覚め」岡潔 解説:横山 賢二
【4】 何故見えるのか
*講演日 :1967年12月6日 於 大阪市 北陵中学校
身辺のことのうち、一番手近なことからはじめると、私、今、眼を開いています。そしてみなさんが見える。目をふさげば見えない。目をふさげば見えないというのは、物質現象です。しかし、眼を開けると見えるというのは、これは生きているから見えるのであって、生命現象です。
この眼を開ければ何故見えるのか、ということについて、西洋の学問は何一つ教えてくれていない。西洋の学問のうち、この方面を受け持っているのは、自然科学、さらに詳しくいえば医学です。医学は、見るということについて、どう言っているかというと、視覚器官とか、視神経とか視覚中枢とか、そういった道具があって、この道具のどこかに故障があると、見えない、そこまでは言っている。
しかし、故障がなければ、何故見えるのかということについては、一言半句も言っていない。即ち、これも物質現象の説明にとどまる。眼をふさぐと見えないというのと同じことです。
それでは、人は、何故眼をあけると見えるのか。大抵は、これについて疑問すら抱かない。知らないということも知らないのです。これは、無知というより言いようがないのでしょうが、これについて、随分詳しく書いた文献がある。それは仏教の中にあります。
欧米人は、知らないから読まない。日本人は不届きです。仏教の中にあるにかかわらず、捜しもしないで人真似ばかりしている。仏教は、それを、随分詳しく言っています。
*解説4
2017.11.09up
皆さんもここを読んで「見える」ということは不思議だなーと思えるだろうか。こう思えるか思えないかが、岡のものが本当にわかる分岐点なのである。
岡は別のところでこうもいっている。「医学では、目からはいった光が網膜に映像を映す。その映像が視神経を伝って視覚中枢に達す。そして、その視覚中枢がその映像を見るから、外界が見えるのであるという。しかし、これでは全然問題が解決していない。目ではなく視覚中枢が何故見えるのか、という問題が再び登場しただけである。これでは循環論法」と。
岡のよく使った言葉「真新しい知情意」をもって、西洋の世界観に染ってしまったメガネを捨てて、世界を見直すことである。この問題に気づいたのも現代では岡1人ではないかと思うのだが、そのはじまりは岡の7歳の時であったというのだから、やはり天才である。
猶、「これについて、随分詳しく書いた文献がある。それは仏教の中にあります」と岡はいっているが、それは無差別智が学説の中心である山﨑弁栄の光明主義である。光明主義では4種類の無差別智(直観)によって「見える」ということを説明しているのである。
ここに光明主義による岡の簡潔な説明をあげてみる。「一葉舟」1968年より。
仏教はこう教えてくれている。目を開けて見ると山が見える。それが山とわかるのは大円鏡智の働きである。山の色形がわかるのは成所作智の働きである。山の心までわかるのは妙観察智の働きである。実際あるとしか思えないのは平等性智の働きである。そうか、生命現象はこんなふうに説明されていたのか。