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「真我への目覚め」岡潔 解説:横山 賢二
【3】 2つの自然観
*講演日 :1967年12月6日 於 大阪市 北陵中学校
今日の日本人は、大抵、みな物質主義者です。物質主義者はこんなふうに考えます。はじめに、時間、空間というものがある。その中に、自然というものがある。自然は物質である。その一部分が自分の肉体である。その肉体と機能とが自分である。だから、すべて大切なものは、みな物質によって言い表すことができるのだから、説明も又、物質を基礎にしているところまでゆくのでなければ、完全な説明とはみなすことができない。こんなふうにしか考えられないのです。
今日の日本人は、みなそうだと思われるが、物質によって説明しなければ納得しない。でなければ、架空のものとしてしまうようです。こういうように、今日の日本人は、そういう自然の中に住んでいると思っている。ところが、明治までの日本人はそうは思っていなかった。仏教がいうような自然の中に住んでいると思っていた。
つまり、まず、心がある。そして、その中に自然があるという、そういう自然です。仏教は、それをこんな論法で言っています。人が、自然があると思うのは、自然がわかるからである。自然がわかるというのは心の働きである。だから、自然は心の中にある、というふうに言っている。
*解説3
2017.11.09up
岡はまず「物質主義者はこんなふうに考えます」といって、「時間空間」からはじまる自然観の説明を進めていっているのだが、もともと西洋の影響を受けた今の我々の自然観を、我々にかわって代弁することからはじめている。
それに対して岡は、我々の全く知らない東洋の仏教の自然観を持ちだしてきて、目には見えない「心」を出発点とする自然観があることを、ここで我々に提示しているのである。
例えばであるが、この宇宙に外界を認識する能力のある「生物」が仮に1匹もいなければ、この宇宙は本当に存在するだろうかという問題がある。西洋の物質主義はそんなこととは無関係に、この宇宙は客観的に歴然と存在すると思っている。
しかし、外界を認識する「心」を持った生物がいるから、つまりこの宇宙に「認識する主体」があるから、この宇宙が存在するといった方が正しいのではないか。だから私は、岡のいうように「自然は心の中にある」と思うのである。これは次の「何故見えるのか」と関連する問題でもある。