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「民族の危機」岡潔 解説:横山賢二
【25】人格の形成 (小学校で大切な歴史教育)
*昭和44年(1969)1月 - 2月 大阪新聞より
前頭葉が十分に咀嚼玩味出来るようになるのは何時頃からかというと、高等学校の3年位からである。
それではそれ迄は、特に小、中学校では、どうしているのかというと、先生が足らぬ所を咀嚼玩味してやって、そうすると時という食物は先生の情緒になる。日本人は幸い心と心とがよく通い合い、それが情であるが、その情緒を「師弟の情」というルートによって子供に送り込むのである。
この時に先生という人が混るのである。先生が立派ならばよいものが入り、先生が悪ければ穢が混る。そしてそれ等が皆子供の大脳頭頂葉に貯えられる。そうして中学校が終った頃、その子という人が出来上るのである。
その人といえばかようにして育てられた頭頂葉のことだと思えばよいのである。時はその後も人によって変って行くが重要さがまるで違う。この大切な、いわば人の仕上げをするのが、小学6ヶ年の「情緒の芽生えの季節」及びそれに続く中学3ヶ年である。
旧制中学5カ年は「知、情、意の夜明けの季節」である。正に眠りから覚めようとして容易に覚め切らない知、情、意の働きを、先生が覚めかけているものを見つけては揺り動かして、覚ませてやるべき時である。私は和歌山県の粉河中学に学んだのであるが、私達の先生達はこのことをよく知っていた。
始まりの3カ年が取りわけ大事であろう。それが中学3年である。小学で特に大切なのは歴史教育である。日本民族の中核(神々)や準中核の人達の命を捨てて描いた美しい日本歴史をよく教えてやらねばならない。
また批判力という知力は働き始めるのが一番遅く、高等学校3年位からしか働き始めない。社会科は小学校3年位から批判力をつけさせる積りでやっているようであるが、あんなことをすると他人の欠点を探し出して、それに対して嫌悪感を起すだけである。共にしてはならない。
*解説25
2014.05.21up
岡もいっているように「小学校では国語と歴史が最も重要」である。心、自然、社会と別ければ、この国語と歴史は「心の学科」ということになり、これが「頭頂葉」の教育である。
自らを知らなければ他がわからない。他を知るだけで自らを知らなければ、丸で猿の人真似である。日本歴史を知ることが出発点となって、世界を知ることにつながっていくのである。その逆はあり得ない。
その日本歴史の最大の特徴は「自己犠牲」である。「自己犠牲」を浅い心(第1の心)から見ると「犬死に」「無駄死に」と見えるらしい。太平洋戦争の「神風」についても、そういうイメージを持っている人がまだまだ多いようである。
しかし、深い心(第2の心)からその「自己犠牲」をみると「崇高」と見えるのである。この不滅の行為によって我々は深い感銘を受け、生きる力と喜びが生まれ、それに恥じない国を作ろうとするものである。
ただ、気をつけなければならないことは、イスラムの「自爆テロ」は一見この「自己犠牲」に似ているが実はそうではなく「意志の宗教」から生まれたもので、日本のように「情」から生まれたものでないことに留意しなけれなならない。彼等のやることは正に「非情」である。
話をもとに戻して、岡によれば我々の30万年に及ぶ「日本の心」を表現したものが国語なのである。だから西洋文学が入ってきてからのものではなく、日本の物語や古典を先ずは読むことが大切である。
人に個性があるように、民族にも明確な個性がある。今巷でいっている「個性」とは、自我(第1の心)から生まれる自己主張の多様性のことに外ならない。これらはいずれ醜悪なものになりかねず、本当の「個性」とは自我を抑止したところ(無私の心)から生まれてくるものである。
猶、小学校の社会科の批判精神からくる嫌悪感(何でもかでも他が悪いと思うこと)、これが定着してしまった大人が実に多い。これが今の社会の劣化の最大の要因ではないか。岡は既にその本質を見抜いている。