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「民族の危機」岡潔 解説:横山賢二
【24】〝時〟を食べる人間 ( 知、情、意、感覚を養う)
*昭和44年(1969)1月 - 2月 大阪新聞より
師道の存在は厳然たる事実である。この基本的な事実に理論を添えよう。
過去なくして突然現在ある人と云うものは無い。その人とは何かと云えば、その人の過去の全体である。だから人は時間が経つ程よかれ悪しかれふえて行くのである。人は不死だから、生まれてからばかりがそうなのではないが、時間がどんな風に人になって行くかがよくわかるのは生まれてからである。それをよく見よう。
時の流れは次から次からと現在になって行く。その現在に色々な内容がある。たとえば、ある一人の子が今小学校である学問を教えられているとする。その子に取っての、その現在の内容はその学問である。
こんな風だから、時の現在(の内容)は知、情、意、感覚に分けることが出来る。人は時(の現在)と云う云わば食物を食べて自分にして行っているのである。時と云う食物は前頭葉と云う口から食べる。ここで云わば咀嚼玩味して、液化して情緒に変えるのである。
知は印象化して知的情緒にする。印象化とは存在感のあるものだけを残すのである。前頭葉と云う映写膜にハッキリ映ったものだけを残すのである。そして頭頂葉に貯え、知的情緒の素もととなる。また前頭葉に現われて、そこで自分と云うものが入ると、色どりが出て知的情緒となるのである。
情は純化される。云わば紅、白粉が取れて素顔だけになる。そして情的情緒となり、その素が頭頂葉に貯えられる。意は霊化される。人の意志は大抵生きようとする盲目的意志であるが、その著しい盲目的な部分が取れて、善に近いものだけが残る。そして意的情緒となり、その素が頭頂葉に貯えられる。
感覚は浄化される。穢けがれた部分が取れるのである。そして感覚的情緒となり、その素が頭頂葉に貯えられる。かようにして時が人になって行くのである。
*解説24
2014.05.21up
ここでいう「知的情緒」とは何だろう。いろいろな知識に出会う中で、「これはおもしろいな!」といつまでも印象に残ることがある。岡にとっては数学に興味を持つきっかけとなった「クリフォードの定理」がよい例である。
岡はこの「知的印象」を何よりも大事にする。岡にとっては単なる「知識」ではなく「印象」が全てであって、岡の学問はこの「知的情緒」の集積といえるのである。小さい子供の「いたずら」もいわば「知的情緒」の発露であって、大人はこの芽をむやみに摘み取ってはならない。
では「情的情緒」とは何だろう。これは芭蕉の俳句や連句の世界がその典型である。芭蕉の連句のように情緒と情緒の調和はよいのだが、1つの情緒は濁ってはいけないのである。どこまでも澄みきった1つの情緒でなければいけない。それが液体である情緒の特性である。だから岡はそれを「純化」といったのだろう。
私の絵の会の大野長一も情緒の世界の人で、大野は私にこういった。「私の画の描き方は、どこまでも削ることにある」と。それは余計な物は描かないという意味でもあるが、岡がいうようにその風景の持つ「情的情緒をどこまでも純化する」という意味だろう。だから大野の画はスッキリとして格調高く美しいのである。
「意的情緒」とは何か。自己本位の行動を嫌って、無私の心から身辺の人に尽くそうとするばかりか、「公」のために生きようとすることである。
では「感覚的情緒」とは何か。昔、山岳信仰で「六根清浄」とよくいった。これは五感(眼耳鼻舌身)と意識(第6識)を清浄にするという意味であって、主に感覚を「浄化する」ということである。だから風俗が乱れ刺激の強い街中は、人にとって本来余り好ましくない筈である。