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「民族の危機」岡潔 解説:横山賢二

【21】 美を創造する情緒 (東洋に裸体画はない)

*昭和44年(1969)1月 - 2月 大阪新聞より
 次は美の創造であるが、東洋の画は頭頂葉で描き、西洋の画は前頭葉で描くのである。

 いい変えると、東洋の画は情操の目で見て描き、西洋の画は感情の目で見て描くのである。その一つの証拠が女性の裸体画であって、西洋ではこれは画という芸術の一つの極致とされているが、東洋の真面目な画に、女性の裸体画は無いのである。

 古事記、万葉、芭蕉は日本民族の生んだ世界に誇る三大文学である。私はこれ等の文学を生んだ日本民族を限りなく愛する。ところでこれらの文学には、大小、遠近、彼此の別が無いのである。彼此の別とは自他の別である。かようなトゥリビヤル(どうでもよいこと)は皆取れてしまって、ただエッセンシャル(本質的なもの)だけが残っているのである。それは何かというと情操、情緒である。

 これで美もまた頭頂葉に実るのであることがお分かりになったと思う。そして頭頂葉こそ日本民族の中核の人達の住家なのである。これで、人の子を育てるとき大脳頭頂葉をよく育てることがどんなに大切かお分かりになったと思う。

 私は「春宵十話」以来「情緒」の大切さを常に強調して来た。情緒とは「柔らかな心臓」という意味である。頭頂葉がよく発育しておれば、その人の言動には一々その人の柔らかな心臓が感じられるし、頭頂葉がよく発育していなければ、どこかかさかさして荒々しい。
 人に大切なのは真、善、美の創造、わけても善行(崇高な行ない)を行なうことである。これは十中八九まで頭頂葉の発育にかかるのである。

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熊谷守一 《ハルシヤ菊》 1954年 愛知県美術館 木村定三コレクション

解説21
 女性の裸体画の「あるなし」が東西の絵画の特徴と岡はいうのだが、その他に違いはないのだろうか。西洋の名画といわれる「モナリザ」を見てみよう。その画をよく見てみると、彼女の背後に小さく景色が描かれているのである。これは象徴的なことである。

 東洋の山水画では風景の中に添景人物として小さく人を描くのだが、「モナリザ」ではそれが逆になっている。こんなところに東西の世界観の違いがよく現れている。これはつまるところ、西洋の「自我の世界観」からくる人が自然の上位にあるという「人間中心主義」の現れであって、この思想の延長が今世界を覆っている「自然征服主義」となるのである。岡はこれを「邪性」といっている。

 もう1つは「遠近法」が使われていることである。静物にしろ風景にしろ、西洋の画は陰影をはっきりと描き立体感を強調しているものが多く、この「遠近法」が正確に使われているのである。これが「時間空間の中に物質がある」という思想であって、これも「自我の世界観」から来ているのである。これを岡は「妄性」といっている。

 一方、東洋の画は「遠近法」があいまいで「時空」もはっきりせず、物質を表現する陰影もつけず平板的に描くのが一般である。

 こういう描き方は今まで西洋のものに比べて甚だ遅れていると思われてきたのだが、東洋の画は明らかに風景の本質は「物質」にあるのではなく、目には見えない「情緒」にあるのだから、西洋のように「物質」を感覚的に描くのではなく、岡が主張するように「物質」という「映像」を通して「情緒」そのものを描こうとしたものであることが伺い知れるのである。

 これが印象派の画家たちが、ジャポニズムといって日本の画に強く惹かれ影響を受けた最大の理由ではないだろうか。例えば浮世絵や大和絵はいうに及ばず、近年では岡が最も高く評価する熊谷守一や、私の絵の会の大野長一の画にも同じ特徴が見られるのである。

*岡潔思想研究会
http://www.okakiyoshi-ken.jp/index.html

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