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「民族の危機」岡潔 解説:横山賢二
【15】情緒の芽生え (一歩誤れば名刀さびる)
*昭和44年(1969)1月 - 2月 大阪新聞
小学6年間を私は「情緒の芽生えの季節」と言っている。情緒が色どりを持つためには、自分と言うものを入れなければならない。
それで自分と言うもののまだ全く出来ていない「童心の季節」には、子供は情緒の素で自分の住む世界を心の中に造ってしまうのであって、これがその人の中核であって(宗教の力を借りなければ)最早や変えられないのであるが、その世界の森羅万象には色どりと言うものがない。
それでこの「情緒の芽生えの季節」に、その一つ一つに色どりをつけて、無色の世界を色どりのある世界に染め変えるのである。人の中核は「童心の季節」で出来上がるのであるが、それが発露するのは、この「情緒の芽生えの季節」においてである。
「童心の季節」だけでは、いわば名刀を鞘に蔵ったままで置くようなものである。それがこの世で切れ味を見せるようにしようと思えば、鞘をはらわなければならぬ。それをするのにこの季節六か年かかるのである。ただ鞘を払うだけに何故そんなに長くかかるのだろうと思うかもしれないが、名刀を鍛えるには、日本民族の場合ならば、30万年位の過去が必要だったのである。
この「情緒の芽生えの季節」すなわち小学6ヶ年の教育を誤ると、単に折角の名刀の鞘を払うことが出来ないで終わる位では済まない。30万年の名刀に、ぬぐいようのない銹さびを入れさせてしまうことになる。
生きている間は勿論直せないが、一度死んだ位ではとても直らない。何度死ねばよいか、死ねばすぐ生まれるものとして、一度算数してごらんなさい。実際は、また名刀が鍛えられる為には、もっと永くかかるとしか考えられない。
人が仕上がるも、全くやり損なってしまうも、小学6年間の教育にかかっているのである。
*解説15
2014.04.16up
小学6年間は「情緒の芽生えの季節」と岡はいうが、私の経験からしてもそれはうなづける。
私は小学3年の時「フランダースの犬」という映画を皆と教室で見た。その時初めて、私は人目もはばからず涙した。また一人で近くの里山に登って、美事に色づいた落葉を拾っては、その美しさに溜め息をついた。夏の林間学校では谷間から聞こえてくる「ひぐらし」の音に、何とも知れぬ不思議な懐かしさを感じたこともあった。
そうして5年生になった頃、それまでクラスの中では平凡であった私の状態は一変していた。家では自分のふがいなさを責めて、家の柱に自らの額をガンガンとぶちつけ、勉強もガムシャラにはじめるようになり、スポーツでも皆の先頭に立っていた。そして、ついにはクラスの皆を泣かしている、私より遥かに体格のよい「いじめっ子」に体当たりで向かっていったのである。