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「民族の危機」岡潔 解説:横山賢二
【14】昆虫人間をつくる (〝小我の芽〟を抑えねば)
*昭和44年(1969)1月 - 2月 大阪新聞より
自我発現の季節の教育は、真我の芽を伸ばし、小我の芽を抑おさえるのである。人はたえず小我を抑えていなければならないというのは全世紀末の医学の定説である。西洋人は自分とは小我のことだと思い切っているからこういう言葉でいっている。
動物には本能やそれにともなう感情を自動的に調節する装置が大脳についているが、人にはそれがない。だから人は大脳前頭葉の抑止力を意識的に働かせて、それらが時を誤り、度を過ごさないようにしなければならない。小我を自分だと思うことは本能であるから、たえず抑止しつづけなければならないのである。
私の受けた小我抑止の教育をお話しすると、私の祖父は私の生後5年目から私に次の唯一の戒律を与えた。「自分を後にして、他ひとを先にせよ」私がみずから進んで、それを守るようにさせたのである。そして私がそれを守っているかどうかを遠くから見守りつづけたのである。私の中学4年の時祖父は死んだのであるが、死にいたるまで見守りつづけてくれた。私の今日あるは祖父に負うところが最も多いのである。(これなしには数学なんかできなかったのである)
真我の芽がよく伸びるようにするには、これを阻害しないことである(小我の芽さえ抑えておれば)。それには、側頭葉は知覚、記憶、機会的判断など、もっぱら機械的な頭の働きを司っているのであるが、そういったことをしいてさせてはいけないのである。この意味で幼稚園は好ましくないのである。
まして家庭が、この年頃の小さな子に、ピアノや電気オルガンを弾かせて(これらは典型的な側頭葉教育)これに同調することは非常に恐ろしいことであって、前頭葉不在のまるで昆虫のような感じの人をつくりかねないのである。大人物は真我の人である。
*解説14
2014.04.16up
ここにも岡先生の信条である「自分を後にし、他を先にせよ」という言葉が出てきた。
枝葉末節は捨てておいて基本だけ考えてみたいのだが、「法治国家」という言葉がある。大概の人は法律を守ることこそが社会に調和と安定をもたらすと考えている節があるが、実はそこに大きな落し穴があると私は思う。
では、なぜ法律を守らなければならないかというと、人々が自分勝手に振舞うからである。そして、それを調整するために法律がいるのである。仮に人々が自分勝手に振舞うことをしなければ、基より法律はいらないはずである。そうすると「法治国家」とは「自己本位」が大前提のシステムだということになる。
そこで問題になることは「法治国家」のなかに長く住んでいると、その大前提の「自己本位」の考え方が知らず知らずのうちに身についてしまい、当の本人には気づかなくなることである。こうして利己主義がいつの間にか社会に蔓延するのである。
それではどうすれば良いか。法律を杓子定規に守ることよりも、岡がいうように「人を先、自分を後」にすれば良いのである。人様に物理的にも精神的にも迷惑をかけないように心掛け、人の立場に立って人の心を汲める人、つまり岡のいう「情の人」になれば良いのである。
そもそも「人が先、自分が後」という前提なくして、その法律でさえもうまく機能するはずはないのであって、その前提を欠いた「法治国家」など、ただギスギスと住みづらいだけである。今日よく耳にする企業の「コンプライアンス」の弊害も、こんなところにあるのである。
今日の我々は「人が先」などという大前提は考えてもみないのだが、この行き詰まった社会を根本から正していくには、この大前提しかないのではないだろうか。しかし、よくよく我々の日常を観察してみれば、昔から既に日本社会はその「人が先」という大前提で動いているように私には見えるのである。これが岡のいう「情の国、日本」である。
猶、最後に岡は「小さな子にピアノや電気オルガンを弾かせることは非常に恐ろしい」といっているが、今であれば「パソコンやケイタイが更に更に恐ろしい!!」と言い直すことだろう。本当に機械文明が「人類の進歩」の終着点なのだろうか?