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「民族の危機」岡潔 解説:横山賢二
【7】義務教育のあり方 (だれが教えるかが大事)
*昭和44年(1969)1月 - 2月 大阪新聞より
私は終戦後、奈良の女子大で数学を教えていた。そうすると、そのうちまったく教えようのない学生ばかりが私の教室へ来るようになった。私はおどろいて、いったいどのような教育をしているのだろうと、それまでの教育を調べはじめた。
まず驚かされたのは、児童、生徒、学生の顔がまったく変わってしまっていることである。私は悪い教育の恐ろしさをつくづく知った。新学制をよく調べて、著書「春宵十話」を書き、教育は根本から変えなければならないといった。
そうすると文部事務次官(当時)の内藤誉三郎さんが新聞に、新教育を根本から変える必要はないと書き、今の教育はデューイの教育学に基づいているといった。私はその反論を新聞に書くとともに、すぐデューイの教育学を調べた。そして何がデューイの教育学に欠けているか、したがって義務教育は如何にあるべきかを著書「紫の火花」に書いた。
その後文部省に行くと、内藤さんは私をはげまして「義務教育に要望するところをできるだけ手短かに書いて私あてに送れ。教育審議会に出すから」といった。私は次の3ヶ条を要望した。
1. 人の中心は情緒である。そのつもりで教育すること。
2. 大脳前頭葉を充分使わせること。
3. 小我を抑止すことを教えること。
この要望がその後どうなったか、杳として私は知らない。
その後、参議院議員になった内藤さんが私の宅に見えた。そして「教育は根本から変えなければならないが、官庁の対面ということもあり、どうすればよいのだろう」といった。
私は「義務教育は、何を教えるかということよりも、誰が教えるかということの方がはるかに大事だ」といった。これが一番主なことであるが、その他色々話した。その献策がどうなっているか、いちど内藤さんに会って聞いて見ようと思っている。
*解説7
2014.03.07u
ここでは岡の教育審議会にあてた、義務教育に要望する3ヶ条をもう少し詳しく見てみたい。
1、人の中心は情緒である。
この岡の「情緒」というものが、仲々ピンと来ないとよくいわれる。私にはどうしてピンと来ないのかが、逆によくわからないのであるが、1つ考えられることは「情の国」である日本に、東洋思想から来る「人の中心は知だ」という先入観が有史以来あって、それが邪魔をしているのではないか。
もう1つは「感情」と「情緒」との区別がつかないためか。「人は感情的になれば理性は働かない」という西洋の考え方が邪魔をして、「情緒」を肯定的に見ることができないのではないか。
2、大脳前頭葉を充分に使う。
今の教育はアメリカ人デューイの影響を受けて、大脳側頭葉(機械の座)の発達を図っているのであるが、人々はそれのみが教育だと思い込んでいる。
電算機の特徴である「記憶の量と回答の早さ」を目標とするのが今の側頭葉教育である。しかし本来の教育は、物事をじっくりと深く考えて意味内容をよく吟味し、これだけは間違いないと自信を持って判断できることではないだろうか。それが数学者などが使う頭、大脳前頭葉である。
3、小我を抑止すること。
これは自己本位に考え行動することを、なるだけ抑止すること。己を空しくして判断する習慣を身につけ、素直さ、謙虚さを養うこと。つまり、「人に厳しく、自分に甘い」のではなく、「自分に厳しく、人にやさしい」物の見方、図式にすれば日本に古来からある「人が先、自分が後」という考え方である。
しかし、戦後の教育は、「自己主張」や「批判精神」を最も重視したのであるが、これは小我(自己中)を肥大化させるだけである。この癖をつけると仲々直らない。死んでも直らないだろうという実例を、私は度々見かける。