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「民族の危機」岡潔 解説:横山賢二
はじめに〜横山賢二
*TAO LABより
本日、本日の一冊でご紹介した『日本民族の危機』。
岡先生のこと調べていたら四国高知に住む横山賢二さんの『数学者岡潔思想研究会』というホームページにたどり着きました。こちらには横山さんがこの研究会を始めるに至った経緯が書かれています。
以下、転載いたします。
"会の設立はソ連が崩壊し、日本ではバブルが崩壊した1992年。
それより25年程前の1968年に、私、横山は、高知で岡 潔の講演を聞いたのがきっかけで岡の著書を読みはじめる。1974年には、岡潔に奈良の自宅で対面し、生涯の指針となる「実践」という言葉ひとつを岡よりもらう。
その後、だいぶ経って1988年、夜眠りから突然醒め『よし、岡家へ行こう!』と思い立ち、直ぐに岡亡きあとの岡家を訪ねる。すると、「岡潔は今では全く忘れ去られた存在だ」と長男の煕哉さんにいわれると共に、多くの晩年未発表の資料が残されていることがわかる。その後、何度も岡家に通い、その資料群のコピーを土佐に持ち帰る。
1992年、それまで勤めていた農協を意を決して辞め、「岡潔 思想研究会」を設立する。
その後、岡潔の晩年の思想の全体像の解明に心血を注ぎ、人類の先覚者たる岡潔の思想を全国に訴え、敢えて手紙や葉書による発信を続け、今日に到る。"
とのこと。
このホームページには岡先生の様々な文章や講演録等がアーカイブされています。
ここに上記の書籍(1969年初版刊行)と対の関係になっていると思われる同年1969年1月より大阪新聞に30回にわたり連載された『民族の危機』と題した記事がアップされています。
それらの記事とともに横山さんがひとつひとつに解説を書いたものを横山さんより快諾をいただき、このマガジン内で定期的に転載させていただくこととなりました。
横山さん、労作、ご苦労様です。ご縁とともに許可、まことにありがとうございます。
また、肉体を離れたとはいえ、今でも人類の精神の劣化を憂い、真の平和を実現するために日本人の覚醒を切望しているであろう岡先生にもご挨拶とともにお礼申し上げます。
お二人のますますのご活躍、楽しみが増えました。
では、第一回は横山さんが書いた以下をご紹介いたします。
*はじめに 横山 賢二
2014−06-11UP
今回は少し趣きを変えて、岡潔先生の大阪新聞への連載をご紹介したいと思います。これは1969年(昭和44年)の1月〜2月にかけて30回にわたり発表されたものでして、この時期における岡先生のご主張と日本への警鐘がわかりやすくコンパクトにまとめられています。
特にこの時期は「岡の教育論」の結論篇ともいえる「教育の原理」(復刻版「日本民族の危機」岡潔著に掲載)が完成された頃であり、多岐にわたる岡の思想分野の中でも「教育論」がこの頃の中心テーマとなっていまして、やはり先生はその「教育論」によって直面している日本の混迷の打開と、ひいては人類の滅亡を何としても喰い止めようとの思いがあった訳です。
しかし、残念ながらあれから40年、教育界の現状はより酷くなることはあっても、基本的には今日もなお当時とほとんど変わらないというのが実情でしょう。
その「岡の教育論」に関しましては、先生ご自身が述懐されていますように、1949年(昭和24年)に奈良女子大学に奉職されましてから、女子大教授の立場上必然的に本格的な教育論の研究に入り、「心の発達曲線(次元は全く違うが今日の発達心理学)」、並びに「岡の大脳生理」という教育における二本柱を順次解明していきつつ、1969年には先程の「教育の原理」とその補足版である「教育の新原理」(岡潔著「曙」に掲載)を発表することにより完結しているといっても良いと思います。
つまり、「岡の教育論」は岡先生の晩年初期、中期、後期とわけて、晩年初期の中心テーマという位置づけになる訳です。
さて、今日の世界各国は当然ながら、「教育」を国家存亡の最重要課題としているように見えますが、我が日本にとりましても「岡の教育論」が混迷を深める日本社会の再建と、世界の未来を荷う真に日本人らしい人材の輩出のためにも何よりも待たれるのでして、文部科学省をはじめ今日の日本の教育界は全力をあげて、この「岡の教育論」に遅れ馳せながらも早急に取り組まなければならないと私は思うのです。
つづく...