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「自他一如」〜医の現場から見えること〜 by 岡田恒良
第三十三回 『真珠湾と知覧』
実は先日も知人と会って、この話をしたんです。話をしている途中から、胸がいっぱいになってしまって、話を続けることができなくなってしまうのです。
平成23年の12月のこと、ホノルルマラソンに参加するため、ハワイに来ていました。もちろんアマチュアで、フルマラソンは初めてのことです。大会の前日、知人たちとふらっと真珠湾見学にでかけました。三度目のハワイでしたが、パールハーバーを訪れたことがなかったからです。
そこには大きな戦艦が展示されていました。戦艦ミズーリでした。太平洋戦争末期の沖縄戦に参加したアメリカの巨大戦艦です。そこでは日本語のできる方が案内をしてくれます。敗戦後、当時の重光外務大臣が降伏の調印をした場所などをみせていただき、最後に戦艦の外壁が大きく変形している場所に案内されました。
お話によると、これは昭和20年の4月沖縄戦の真っ只中、このミズーリに特攻隊の零戦がぶつかった現場だというのです。零戦が搭載していたはずの爆弾がなかったため、大きな損害がなく、飛行機の衝撃だけで済んだということでした。
特攻隊の兵士は機体から投げ出され、手足のもげた死体になっていたそうです。消火作業がすみ、米兵たちがその死体を恨めしそうに海に投げ捨てようとしていたその時でした。当時のミズーリの艦長ウィリアム・キャラハンは、兵士に向かって叫びました。
「何をする、その兵士は君たちが及びもつかないくらいの立派な操縦士だ。とても勇敢なだけでなく、その操縦技術も非常に優秀にちがいない、もっと丁重に扱うように。」
甲板にいた米兵たちはその命令によって考えが一変したのでしょうか。翌日にその遺体を軍正規の方法で、丁重に葬る(水葬)こととなりました。遺体は幾重にも包まれ、その上水兵たちが一夜のうちに作ってくれた手作り日章旗を、その遺体にかけてくれたというお話をされたのです。なんという事でしょう。
ここまでお話しすると、いつも胸が苦しくなります。あとが続けられません。
ミズーリの案内員はいいます。この話をするとすべての日本人が涙をながすよ、と。
翌年3月、父を伴って名古屋三越に行きました。鹿児島県物産展が開催されていたからです。薩摩焼や薩摩切子などを眺めていると、近くで鹿児島の観光ビデオが流れていました。そしてあの特攻隊基地のあった知覧について詳しく説明がされています。実は友人が常日頃から知覧には行った方がいいよとアドバイスを受けていたのを思い出しました。
そして2ヶ月後の5月3日、とうとう知覧に行くことができました。午前中は近くの開聞岳に登山、その足で知覧平和記念館を訪れました。数々の遺品・遺族にあてた兵士の手紙の展示には胸を打たれました。また突撃を控えた兵士たちが滞在した三角屋根の兵舎など見学し、宿に帰りました。
宿のロビーでは、ご老人を取り囲んで、数人が耳を傾けています。どうやらそのご老人はその日知覧で開かれた慰霊祭で講話をなされた板津忠正氏であることがわかりました。特攻隊員として沖縄の米軍目指して死の攻撃に飛び立った若き日の板津氏は、航空機の故障で離れ島に不時着したそうなのです。
仲間を失い、一人生き残った板津氏はやるせない思いで死神のような姿で知覧を歩いていたそうです。そのとき、あなたには何か別の働きがあるのだから、それまで命を大事にするよう、行きつけの富屋食堂の女将(おかみ)から諭されたということなのです。その食堂がいまの富屋旅館、その時宿泊していた旅館なのです。
板津さんと親しくお話をさせていただくうち、なんと板津さんが名古屋市役所の職員であったこと、現在は犬山市に在住であることがわかりました。
名古屋に帰ってから程なく、犬山におられる板津様を知人と訪ねました。相変わらずお元気で知覧での体験、命を散らした戦友らの手紙や写真を見せていただくうち、なんとかして板津様のお話をたくさんの方々に聴いていただきたいとの思いが強くなりました。
早速広い会場を予約し、チラシを作り、友人・知人やを通じて聴衆を募りました。それまですでに9回も自然医学の勉強会を主催してきたので、すぐにみんな集まってくれるだろうと思っていました。ところが今回は健康の話とは異なります。収容350名の大会場でしたが、結果120名ほどしか集まりませんでした。
それでも板津さんは精力的に特攻隊員としての体験から、平和がいかに大切であるか、切々と語ってくださいます。盛大な拍手にかこまれ、満足そうにしておられました。
そこに来ていただいていたある知人の御夫人に、もっと沢山の聴衆に来て頂きたかったですねって、つい愚痴を漏らしてしまいました。するとそのご婦人が思いがけないことをおっしゃるのです。
「岡田さん、会場は後ろまでいっぱいでしたね。すぐ近くの護国神社から、沢山の英霊の方々が聞きに来ておられましたよ。」
...この言葉を聞いて、涙があふれてきました。いつ思い出しても、今、この原稿を書いていても涙が出るのです。
*著者 プロフィール
なごやかクリニック院長
名古屋醫新の会代表
岡田 恒良(おかだつねよし)
https://www.facebook.com/tsuneyoshi.okada1
1955年岐阜県生まれ
1980年岩手医科大学卒
約20年消化器系一般外科医として通常に病院勤務。市民病院で外科部長として勤務中、ある先輩外科医との運命的出会いがあり、過剰医療や過剰投薬の現状に気づき、自然医学に目覚める。
1999年千島喜久男博士の勉強会を名古屋で主催、マクロビオティックの久司道夫氏の講演会企画をきっかけに病院を辞職。
御茶ノ水クリニックの森下敬一博士の機関誌《国際自然医学》に「自然医学の病態生理学」を長期連載。中山武氏の主催するがんの患者会「いずみの会」の顧問をしながら安保徹教授の講演会を開催し、親交を深めた。
看護学校にて補完代替医療について講義中。
2006年コロンビアのドクトル井上アトム氏に出会い、運動療法・自然療法の重要性を認識。以来南米に3度訪れる。 「自他一如」の探求は2000年から続く。
*TAO LABより
岡田先生とおなじく、この勇気ある若者たちの物語を聴くと申し訳なくなり、涙流れ、感謝の念が湧き上がります。
九州時代の2010年晩夏に知覧を訪ね、宿泊はいまは宿にもなっていた富屋さんに泊まらせていただきました。その時の写真を一部アップします。
個人的には知覧特攻平和会館よりこの食堂のホタル館のほうでどうしようもなくなってしまい...号泣してしまいました...
合掌