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「自他一如」〜医の現場から見えること〜 by 岡田恒良

第二十六回 『天体に合わせて生きる』

《徳川期までの理にかなった生活!卯の刻=夜明け》

 自然界はズバリ波なのです。
つまり大きくなったり小さくなったり、長くなったり短くなったりを繰り返すのです。常に変化する=諸行無常=変易、ということです。

 日照時間も変化します。
何のために地軸を23.5度傾けてくれたのですか?このためではないですか?この傾きが、夏至や冬至をこさえてくれたのではないですか?せっかくの四季、せっかく日照時間を変化させ、季節に彩(いろど)りを添えてくれているのに、なぜ肉食の異人たちは日の出を無視し、月齢を無視する暦を押し付けるのでしょう。

 かつては日の出は卯(う)の刻、お天道様が南中したらそれは午(うま)の刻、西に傾き日没になれば、それは酉(とり)の刻でした。何にも考えなくていいのです。そのままお天道様を見ていれば1日がわかるのです。そろそろお昼だな!ちょっと傾いた、帰る時間だ。日が沈む、もう夕餉(ゆうげ)だ。だいぶ暗くなった、半月も沈むならもう遅いし、眠ろうか!

 夏の日の出は、朝5時前だ!冬は朝7時になる!なんていう表現は、現在用いられている人工的冷徹機械式時計による錯覚であり、洗脳です。日の出を卯の刻と呼ぶ、それでいいのです。

 かつては日没後の月齢も重要でした。
満月頃には三河屋が集金に来るからです(かつては、一日と十五日が集金日でした)(^ ^)。三日月がすぐに沈むこと、半月が夜半に沈むこと、満月は夕方から朝方まで輝くこと、月の大きさがそのまま月の暦ですから、満月を見ながら今日は何日?何て愚問は誰も発しません。

 星座もよく知っていました。
オリオン中央の三ツ星を、住吉神社にかたどっています。北辰、妙見、星宮神社は北極星です。太一ともよんで星々をも厚く信仰していました。
全宇宙、全ての天体がこの生命体を生んだのです。それを忘れてはいけません。月の動きは潮の干満をもたらし、干満が海の生物を養います。この豊富な水は、少しずつ小惑星が運んできてくれたのものです(星の王子様も一緒にね)。

 また鉄よりも重い元素は、小さな地球では生産できません。超新星爆発(もしかしたらブラックホールも?)のような巨大な圧と熱がなければ金も水銀もまたウランもできません。それらは遠い宇宙から地球に降り注いでくれたのです。ですから重金属といえど、地球の割と浅い部分にあるのです。重い金属が表面に存在するのはそういうことなのです。必要なものを全部揃えてくれたのです。太陽はもちろん、月や惑星たち、さらに小惑星たち、ギャラクシーの星々、そしてアンドロメダ大星雲など他の銀河も含めて、本当にありがとう!なのです。かの乙女座のブラックホールも大切な働きをしていたのでしょう!愛(め)でたいです。愛でてあげたいです。

 150年前武装蒸気船が徒党を組んで恐喝、そして渋々開国しましたが、それまでの貴重な文化を決して忘れじです。

...続く

*TAO LAB より
十二時辰(じゅうにじしん)とは近代以前の中国や日本などで用いられた、1日をおよそ2時間ずつの12の時辰(じしん)に分ける時法である。"およそ2時間"とあるのは、後述の通り夜と昼、季節で長さが変動するからである。この"およそ2時間"がいい塩梅なのである。

室町時代から江戸時代間での日本では、不定時法が主流だった。
不定時法では常に、日の出は卯(日出)の正刻、日没は酉(日入)を正刻とする。このため、夏場は日の出が早く日没が遅くなり、逆に冬場は日の出が遅く日没が早くなることから、昼夜それぞれを6等分した時辰の長さ、つまり昼の1刻間と夜の1刻間は同じ長さにはならず、冬の昼間や夏の夜間は短くなり、冬の夜間や夏の昼間は長くなる。これを平均して2時間である。したがって正子・正午以外の時刻も季節により変動した。

岡田先生が伝えたいことは現代は時計という機械に基準をあわせキッチリキッカリと生活している(それはある意味、縛られているということ)が、宇宙と地球のリズムにあわせ、ゆらぎの中で生活することがじつは本来理にかなっているのでは?ということと受けとめました。

ゆらぎ〜それはキッチリキッカリとは違うやさしいリズム。
人々の意識や精神性にも関係することかと。

f分の1ゆらぎ.jpg

それはf分の1ゆらぎに通じるということ。

「f」は、Frequency(周波数)の頭文字をとったものです。
規則正しく→ 不規則 → 規則正しく → 不規則 ...こそ、本来のリズムかと。


*著者 プロフィール
なごやかクリニック院長
名古屋醫新の会代表 
岡田 恒良(おかだつねよし)
https://www.facebook.com/tsuneyoshi.okada1
1955年岐阜県生まれ
1980年岩手医科大学卒
約20年消化器系一般外科医として通常に病院勤務。市民病院で外科部長として勤務中、ある先輩外科医との運命的出会いがあり、過剰医療や過剰投薬の現状に気づき、自然医学に目覚める。
1999年千島喜久男博士の勉強会を名古屋で主催、マクロビオティックの久司道夫氏の講演会企画をきっかけに病院を辞職。
御茶ノ水クリニックの森下敬一博士の機関誌《国際自然医学》に「自然医学の病態生理学」を長期連載。中山武氏の主催するがんの患者会「いずみの会」の顧問をしながら安保徹教授の講演会を開催し、親交を深めた。
看護学校にて補完代替医療について講義中。
2006年コロンビアのドクトル井上アトム氏に出会い、運動療法・自然療法の重要性を認識。以来南米に3度訪れる。 「自他一如」の探求は2000年から続く。

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