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「自他一如」〜医の現場から見えること〜 by 岡田恒良
第十九回 『百人一首は魔法陣だった』
岐阜県の郡上八幡には有名な宗祇水というのがあり、飯尾宗祇(いいおそうぎ)のゆかりの泉が湧いています。宗祇は古今伝授を大和町の領主・東常縁(とうのつねより)から学ぶため、この郡上に逗留したのです。
古今伝授とは日本初の勅撰和歌集である古今集(905年成立・撰者は紀貫之ら4名)の解釈のための秘儀とされていました。この伝授が当時如何に重要であったかを示す有名なエピソードが、後陽成天皇に命を救われた細川幽斎(伝授を授ける際に戦に巻き込まれた)の一件です(ご自分でお調べください)。
さて本題の百人一首、これは言うまでもなく藤原定家が73歳のころ編んだ歌集ですが、同時にもう一つの歌集、百人秀歌というものも作成していました。この百人秀歌はずっと宮内庁に秘匿されており昭和26年偶然発見されるまで、ほとんどの方が知りませんでした。
この両歌集が現れたことで、歌集についての様々な研究が盛んになってきました。
織田正吉著の『絢爛たる暗号〜百人一首の謎をとく』を始め、林直道著『百人一首の秘密』などが刊行されると、この百人一首には単なる和歌集を超える何かがある、そう考えたのが太田明氏です。
彼の著した『百人一首の魔法陣―和歌に隠された10次魔方陣の秘密』は100の数を並べ魔法陣をつくる、そのための秘術が隠されているという内容です。その魔法陣を作成するに至っては、百人一首のほか、百人秀歌、古今集、新古今集、三十六人撰、俊成三十六歌合などがどうしても必要となる、不思議なことに古今集以来の和歌集には必ず番号が振ってあり、これが常に歌とともにきちんと記録され続けている、古くは和歌に番号などなかったと言われているのです。
この魔法陣の作り方は非常に入り組んでおり、詳細は著作をご参考にしていただくこととして、明らかなことは古今集始め10世紀から11世紀にかけて、当時の公達たちが数の秘儀を知っており、それを絶対に守らなくてはならない(数々の戦乱や、天皇が島流しになった頃)、そしてけっして外部に漏れてはならないと考えていたことなのです。その数の秘儀とは、結論から言えば易の64配列なのです。前回易経の64種について書きましたが、8×8の表があり、一つ一つに番号が振られています。しかしそれは魔法陣になっていません。正しく魔法陣になった配列を「範囲の図」といい、ずっと失われているとされていました。本場中国にもなく、ずっと易の世界では諦められていたものなのです。
当時、「数」というものは並々ならぬ力をもっていると考えられていました。
世を動かす朝廷にとって易経は必須の書であり、陰陽道はそれを扱う分野です。藤原家はご存知ように筆頭貴族、天皇の奥方はなんと、大正天皇までずっと(時々は時の有力者の女性もありましたが)藤原からの女性です。天皇家や摂関家の存続が危うい、とてつもなく逼迫したご時世であった当時、彼らは数のトリックを怨霊封じのためか、結界を張ったのか、祈祷の意味合いか、とにかくそんな動機で使ったことに間違いありません。
前々回に書いた、例の「おっさん」は、1997年刊行された太田明の著作を一読するなり、これは易の「範囲の図」であることを瞬時に理解されました。なぜならおっさんは易経に非常にくわしく、すでにこの範囲の図をなぜか知っておられたのです。
"ほう、「百人一首に秘めてあったか!」百体が一つの首になったのなら、世の中うまくいくのだがなぁ。今は百体に百の首じゃ、バラバラの世の中じゃ。"
意味深な言葉でした。 ...続く
*著者 プロフィール
なごやかクリニック院長
名古屋醫新の会代表
岡田 恒良(おかだつねよし)
https://www.facebook.com/tsuneyoshi.okada1
1955年岐阜県生まれ
1980年岩手医科大学卒
約20年消化器系一般外科医として通常に病院勤務。市民病院で外科部長として勤務中、ある先輩外科医との運命的出会いがあり、過剰医療や過剰投薬の現状に気づき、自然医学に目覚める。
1999年千島喜久男博士の勉強会を名古屋で主催、マクロビオティックの久司道夫氏の講演会企画をきっかけに病院を辞職。
御茶ノ水クリニックの森下敬一博士の機関誌《国際自然医学》に「自然医学の病態生理学」を長期連載。中山武氏の主催するがんの患者会「いずみの会」の顧問をしながら安保徹教授の講演会を開催し、親交を深めた。
看護学校にて補完代替医療について講義中。
2006年コロンビアのドクトル井上アトム氏に出会い、運動療法・自然療法の重要性を認識。以来南米に3度訪れる。 「自他一如」の探求は2000年から続く。