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『日本語で<アイ•ラブ•ユー>をどう言うか』 by 金谷武洋

How do we say I LOVE YOU in Japanese?(その5)

レヴィストロースは何度も来日して日本語も日本文化もよく知っており、その後インターネットで見たインタビューでは日本語とフランス語の構文比較までしていましたから、まるで言語学者です。比較された文は「タバコを買って来る」と「je vais m'acheter des cigarettes」でした。日本語の動詞は「来る」だがフランス語の方は「aller(行く)」だと指摘して、日本語を求心的(centripète)、英仏語は遠心的(centrifuge)と描写したのです。それをまた持論である「日本語は引き寄せる」が「英仏語は押し出す」の傍証としていました。

それを聞いて私が思い出したのは1939年から1854年まで215年ほど続いた江戸時代の鎖国です。もちろん、朝鮮半島から満州まで軍国主義の帝国日本が領土を広げた時代も確かにありました。でもそれは1911年から1945年までの35年に過ぎません。鎖国していた時代の長さに比べると16%で2割にも及ばないのです。鎖国ほど自分の身を引く国家の姿はありませんよね。それを日本は2世紀以上も続けたのです。そして、その間、日本には江戸の町民文化が花開き、平和が続いたのです。

さて、これで修士論文とそれに続く文法研究の方向性がいよいよはっきりしました。先ず、オタワで働いていたサピアが「母語が世界観に深い影響を与える」と主張していたことを知りました。続いて、ケベック市での講演会でレヴィ・ストロースが、「日本と西洋は仕草も考え方も正反対である」と教えてくれました。そうした中で、私が教え出した外国語としての日本語が相当英語やフランス語と発想が違っていることを多くは学生からの質問を通じて気づかせてくれたのですから、そこから次のステップは、もう明らかでした。それは、基本文の構造にあるに違いない決定的な違いを発見するという課題だったのです。

日本語の文の構造を三上文法に教えてもらう
この最終段階で3人目の恩人が出現しました。それが三上章という名前の日本人の文法研究家です。
最初に面白いと思ったのが「富士山が見える」という文です。これは「富士山を見る」とは大違いです。

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日本語文法の謎を解く』(金谷武洋著:ちくま新書:2003)の24+25頁からスキャン

「見える」の方はいわゆる自動詞で、そこに「私」は意識されていません。文には出てこない「私」に向かって富士山の姿が迫ってくる。つまり矢印は富士山から私へと向かっています。「富士山を見る」では矢印の方向が逆で見ている「私」からの富士山へ視線が向かいます。
そこで気がついたのは、英語やフランス語なら、このどちらも「I see Mt.Fuji(見える)」、「I look at Mt.Fuji(見る)」、と他動詞構文になるという違いです。英仏語では常に自分が視線を押し出すのに、日本語では自分に向かう視線を受け止めることがあるとすると、これまたレヴィ・ストロースが主張した「押す英仏語」と「引く日本語」の別の例であると気付きました。

日本語を教えていて「日本語が分かります」という文を使いました。するとこの文がフランス語にできないのです。いえ、翻訳可能な文が多すぎるのです。学生たちは「Je comprends le japonais」という意味の文に「私」が出てこないのは考えられないと言います。私は仕方なく妥協して「私は、日本語が分かります」と変えました。すると学生はこの文の主語は「私は」か、それとも「日本語が」なのか、どちらかと聞いてきました。いわゆる「ハとガの違い」ですね。教師の私には大きな疑問が残りました。例えば「◯◯さん、日本語が分かりますか」と聞かれて、その答えなら「はい、分かります」だけで十分です。「日本語が分かります」と「日本語」を繰り返す必要はありませんし、ましてや「はい、私は日本語が分かります」と答えることは、日本人ならまずありえないと確信しました。なぜ日本語では「はい、分かります」だけでいい文なのか、こう答えた方が日本語としてずっと自然なのかを考えていた時に、三上章の文法が私の疑問を全てを解決してくれたのです。友人が「象は鼻が長い」という本を送ってくれたのです。それを読んで私の目からウロコが落ちました、三上さんは、日本語の構文に主語はいらないと主張していたのです。

こちらが三上さんの写真です。
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三上さんが3番目の恩人なのですが、3名全員がカナダと不思議な縁があると言いましたよね。三上さんはカナダとどういう関係があったのでしょうか。

カナダとの縁は、サピアがオタワでレヴィ・ストロースがケベック市だとすると、三上さんと関係があるのはモントリオールです。実は、三上文法に助けられて修士論文と博士論文を書いた後、私は文法に関する本を何冊か日本で出版しました。その一冊が三上章の評伝で、これは2006年に出版されました。この本を当時の広島市長だった秋葉忠利氏が読んでくださったのです。三上さんは広島の出身で、広島は1998年からモントリオールと姉妹都市になっていたのです。姉妹都市の交流行事で秋葉さんがモントリオールにいらした時、私は市長の通訳を務めました。すると初対面だった私に秋葉市長が「金谷さん、広島に来て三上さんについて講演をしてください」とおっしゃって下さったのです。これも、モントリオールが広島と姉妹都市だったからこそのご縁です。

では、ごく簡単にですが、三上文法をご説明しますね。日本語は述語一本立て、つまり述語だけで基本文となる、という極めて明快な主張です。これに対して英仏語のような西洋語は主述二本立て、つまり全ての文に主語がなければいけません。特にフランス語に明らかですが、主語がなければ動詞が活用できないので文とならないのです。英語は動詞活用を時代とともに次第に失い、今ではいわゆる「三単現のS」だけが残っていますが例えば「Be動詞」と呼ばれるものは現在までしっかり活用を保っています。三上文法によれば、「分かります」だけで文となれるので、それを知った私は感動し、悩みから解放されました。それからは、学生の作文から人称代名詞と呼ばれるものをどんどん消していったのです。例えば、「マリーさんに会いましたか」はいいのですが、その答えの「はい、私は、彼女に会いました」は日本語では完全に悪文です。「私は」も「彼女に」も消した「はい、会いました」が一番自然な日本語の文なのだと胸を張って説明できたのは三上文法のおかげです。

こうした、英語ではSVO(主語、他動詞、直接目的語)で表現される状況が日本語では主語が消えてしまい、述語は自動詞を使った動詞文、あるいは形容詞文、名詞文になってしまう例が次々を発見できたのです。

今見たばかりの「見える」が目ならそれと並んで耳を使う「聞こえる」も自動詞で英語の直接目的語に匹敵する目的格補語(名詞+を)は現れません。主格補語(名詞+が)ならそれが可能です。「ジャズを聞く」「ジャズが聞こえる」

「英語が出来る」の「出来る」も同じ自動詞構文ですが、この場合は「出来る」という漢字にも注目しました。「出て来る」と書くのですから、まさに私はそれを引きよせるのです。考えてみると「お米が出来る」と「英語が出来る」は結局同じ動詞で、流暢に英語を話せる人はまるでその口から英語がどんどん流れてくる、というのが本来の意味だったのでしょう。それを見る私は何もしていないので文に現れません。

英仏語でそれぞれ「have」と「avoir」が使われる「所有」も表現も、日本語では単に「そこにいる、そこにある」という存在文になります。人であれば「息子が2人いる」、物であれば「車がある」でちっともSVOの他動詞構文なりませんし、ならないほうが日本語として自然なのです。

それではいよいよ、英語と日本語の典型的な文の組み立てを比較することにしましょう。その際に違いがとりわけよく浮かび上がるの文はそれぞれの言葉における「愛の告白」だということに私は気がついたのです。

アイラブユーは日本語に直訳できない
実はこれもカナダで日本語を教えていて何度となく学生から出て来た質問なのです。ある日のクラスで、「先生、『Je t'aime(=I love you)』 は日本語でどう言うんですか」。と聞かれました。さぁ、皆さんならどう答えるでしょうか。「日本人はあまりそんなことは言わないんですよ」と文化的説明で逃げる手もありますが、今の若い日本人はそうでもないでしょう。また、そんな答えでは学習者はとても納得してくれません。この質問にどう答えたらいいかを考えて、そこから必ず出て来る英語と日本語における「人称代名詞」と「基本文」の問題点へと繋げてみようと思います。

先ず「人称代名詞」と言われるものについて考えてみましょう。実は英仏語などと日本語では全く「人称代名詞」をめぐる様子は違っています。私は 英語の"I love you "、フランス語の "Je t'aime" に当る愛の告白の表現は日本文では(多くの場合、相手の方を見るでもなく、また聞こえないような小さな声で言う)「好きだよ」(女性なら「好きよ」)が一番自然であると思います。その前に相手の名前を言うかも知れませんが。

さて、ここで大切なことは、日本語ではわざわざ「僕は君が好きだよ」とか「私はあなたが好きよ」と言わなくても、充分意味が通じるということです。そもそも、「好きだよ」や「好きよ」と言われて「えっ、誰が?誰を?」と聞き返すほど勘が悪かったら、気持ちを分かってもらえる可能性はかなり低くなりそうです。ましてや「私はあなたを愛しています」などというような文は、極めつけの「悪文」というべきもので、出来るだけ使わない方が無難です。こんな風に言われたら、相手から「あなたってググール•トランスレーションなの?」と言われそうですが、その理由は簡単です。日本語の「基本文」には、国語の時間には(学校文法で)そう教えられますが、本当は、「主語」や「目的語」が義務的でなく、むしろ言わない方が自然な文だからなのです。

これに対して、英語では「I love you」は文ですが、「love」だけではとても文になりませんから、人称代名詞は絶対必要なのですが、日本語にはそんな英語の事情に付き合う義理も義務もありません。

さて、この講演のタイトルは「日本語でアイラブユーをどう言うか」でした。ここまで聞かれて、もう答えは出ましたね。その答えをオーギュスタン•ブルクというフランス人の地理学者に聞いてみましょう。「空間の日本文化」(1994)という本の中でこう書いています。

「今から15年ほど前、パリ東洋語学校で日本語を習い始めていた私は、日本お戦争映画の1シーンに奇妙な感動を覚えてことを記憶している。危険が迫ってきたのもかかわらず。持ち場を離れたくない看護婦がいる。医者が理由を尋ねる。彼女はしばらく黙っているが、とつぜん、目はそむけたまま、医者に「好きです」と言う。フランス語の字幕は  <Je vous aime.>」
原文の日本語にはない「あなた」と「わたし」が仏語ではどうしても顔を出すわけですね。


*TAO LAB より
鎖国と江戸時代〜マネーの一つの流れる先=これからのビジネスとしての宇宙開発が盛んになり始めた昨今、毎度、違和感を覚えます。この地球で「足るを識る」ことの出来ない人類が他の惑星に移ったところで、どうなんだろう?と。
鎖国というのは「閉じる」ということとともに「有限」という中でいかにバランスよく豊かさを求め、生きることだと思います。
地球が「無限」に領土もエネルギーもあると勘違いしていた人類...宇宙に浮かぶ人類にとって母星ともいえる地球は「有限」の存在です。だからこそ人類の意識が江戸時代の日本人のように鎖国を受け入れ、ポジティブな工夫をして生きるネオ江戸時代というライフスタイルへのパラダイムシフトが大切かと。

地球はこの宇宙の中でもとびきり美しい惑星です〜本来は。そんなこの地球を物理的にも精神的にも汚しているのは人類のみです。その問題を解決する思考と精神の道具のひとつのツールが日本語=日本語脳というOSではないかと。

次回6回目で完結を迎える金谷先生の「How do we say I LOVE YOU in Japanese?」お楽しみに!

金谷先生のこの本をあらためて紹介します。
主語を抹殺した男.jpg

主語を抹殺した男/評伝三上章


◆主要著書
日本語は敬語があって主語がない--「地上の視点」の日本文化論』(光文社新書)
日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)
日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語 』(ちくま新書)
日本語は亡びない』 (ちくま新書)
英語にも主語はなかった--日本語文法から言語千年史へ』(講談社)
日本語が世界を平和にするこれだけの理由』(飛鳥新社)

◆金谷武洋公式ブログ

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