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『日本語で<アイ•ラブ•ユー>をどう言うか』 by 金谷武洋
How do we say I LOVE YOU in Japanese?(その3)
声の大きさで英語と似ているのが中国語です。やはり一度、日本人ならどちらも「ぶち切れ」て怒りまくっているような声だったので、私はてっきり大喧嘩をしているのだと思いました。本から目を離して声の来る方向を見ますとなんのことはない、興奮して「話し合って」はいますが、「怒鳴り合って」喧嘩をしてはいませんでした。こういう話し方が当たり前の、英語話者や中国語話者の本人達は自分たちの声が周りの人の本を読めなくしているなどとは思いもつかないのです。
このように、英語と中国語は声の大きさや周波数が近いことも、日本人より中国人が英語を早くマスター出来る理由だと私は思います。彼らは、勿論、バスや電車の中でも平気で携帯電話を使い、大声で話しています。ちなみに、電車やバスの中で携帯電話を使うことを遠慮する文化は日本ぐらいなもので、私など久しぶりに日本へ帰って来ると車内の静かなことに毎回驚かされます。新幹線の前の座席に日本語で「携帯はマナーモードでお願いします」というようなことが書いてあり、マナー・モードはサイレント・モードと英訳されていました。静寂がマナーであると英語話者は必ずしも考えないので、わざわざ「沈黙モード」と言わないといけないからでしょう。
発声と並んで重要なポイントが視線です。先ほども映画のポスターでその違いを見ました。多くの日本人は「相手の目を見つめること」を失礼と思いますが、その逆に「相手の目を見て話さない」方が西洋人には失礼なのです。第一、道で知人と会った時に、日本人ならよく会釈をします。会釈とは「にこやかにうなずく」ことです。さらに敬意を表するなら、立ち止まって、顔だけでなく身体全体を前に折りますね、こうすると「お辞儀」になります。
これに対して、西洋なら身体を反らす方向が正反対です。前ではなく後ろで、典型的には、胸を反らしてアゴを突き上げ、「ハーイ」というような大声を発して、相手の方を向いたまま近づいてきます。もちろん視線は相手を直視したままです。日本人がお辞儀をするのは、相手を直視しないという意思表示であるようにも思えます。
自分を小さく見せようとする日本語話者、逆に大きく見せようとする英語話者。そして、そのことと言葉は深く結びついています。少し後で、人類学者のレヴィ•ストロースの話をしますが、「自分を押し出す西洋」と「自分の方に引き寄せる日本」の対立が言葉にも身振りにも並行して現れるのです。大河ドラマなどで「時代劇」を見ていると、目下が目上に対して「恐悦至極に存じます」「恐れ多くも上様は」「恐れ入った次第」などとさかんに畏まっていることに気がつきます。これは日本人の意識の深いところで敬意の底に「恐怖・恐れ」があることの証拠だと私は思います。江戸時代の大名行列では「下にぃ、下にぃ」と庶民に頭を下げさせました。
平成の現代日本でも、初対面の人、あるいは目上の人には敬意を表したいと思うものですから、視線を相手からそらすのはごく自然なことと言えるでしょう。自分の顔をじろじろ見られると確かに不愉快ですし、任侠世界のお兄さんたちなら「貴様、ガン飛ばしたろ」とか「何だよ。ガンつけやがって」などと因縁をつけられそうなところです。私は教え子が痛い目に会うのではないか心配で、出発前には必ず「相手の目を見つめたらダメだよ」とアドバイスしていました。
相手の目を見ることそれ自体は、良くも悪くもありません。大切なのは、英語を母語にする話者は大きくよく通る声で相手の目を見て話すし、日本語の母語話者はそうしないという文化的な違いを認め、理解して「郷に行っては郷に従え」の教えの通り、相手の土俵にのぼることなのです。つまり、英語を身につけるためには、日本的な慎み深さや遠慮は意識的に忘れ、オペラ歌手や俳優になったつもりで「英語話者の役を演じて」、その後は日本人の自分に素早く戻ってくればいいのです。このことを私は教え子たちに「川を渡る」イメージで説明してきました。私が毎日セントローレンス川を渡って大学に通っていたことも関係しているかもしれません。日本と英語の両方が自然に話せる人は、上手にあちらの岸へ渡って演技を楽しみ、それが終わったらひょいと川を渡って戻ってくることが出来ます。
さて、最初に取り上げたさまざまな「日常表現」や、その後で紹介した北山修さんの歌詞、「あの素晴らしい愛をもう一度」と俵万智さんの短歌をここで思い出して下さい。そこでは「共視」の大切さが語られていました。「相手を直視」しようとしない日本人の傾向は「共視」と大変よく似ています。結局、言葉とは文化そのものなのです。言葉は仕草や振る舞いと同じ方向を向いていると言っていいでしょう。
さて今日の中心テーマである「日本語と英仏語の基本文構造の違い」に入る前に、私の背中をさらに押してくれた「2つの発見」についてお話します。
地名の違い
そうです。発見は2つありました。最初の発見は地名です。カナダの地名の多くが日本語の発想に似てると気がついたのです。面白いことに、英語やフランス語が語源のものと、先住民族の言葉が語源になったものの両方が共存します。例えば、ここは首都であるオタワですが、どういう意味かご存知ですか。
はい、正解です。オタワは「交易をする場所」という意味ですね。でも、ご承知のように、オタワという地名は英語ではありません。先住民族の言葉です。首都オタワのある州はオンタリオですよね。これは「美しく輝く水」という素敵な意味の地名です。オンタリオ州のお隣が私の住むケベック州ですが、こちらも先住民の言葉で「川幅が狭くなる所」の意味です。これは州都のケベック市がセントローレンス河の狭くなったところに位置しているからです。ちなみに、日本にもそれによく似た「瀬戸」という地名があるんですよ。これも元々は「狭いところ」の意味でした。滝で有名なナイアガラの意味は「水の轟き」です。そもそも国名のカナダだって先住民族の言葉ですが、その意味を知っていますか。何と「村」だったんですね。皆さん、カナダの面積は日本の27倍もあるんですよ。こんなに広大な国の名前が「村」とはまるでジョークじゃないでしょうか。カナダが村なら日本は何でしょう。「村役場」とか?
また、カナダで人口が一番多い街はトロントです。トロントの意味は「人が会う所」でした。こうしてみると東部カナダには先住民族の言葉がまだ残って使われ続けている傾向があるようです。カナダ西部の地名は、先住民族のものがあったのですが、ほとんど英語の言葉に置き変えられてしまったのです。
カナダ東部の多くの地名に、人の名前は使われていないことを知った私は、最初にお話しした「人があまり出て来ない日本語」とよく似ていることに驚いたのです。そして、日常会話でも「わたし」や「あなた」があちこちに出てきた英語では、地名でもやはり人間中心となります。偉人や有名人の名前が、好んで都市や山や大通りに付けられてしまうのです。たとえば、日本人の観光客かもよく訪れる西海岸にはバンクーバーやビクトリアという名前の街がありますが、これは二つとも明らかに人名です。バンクーバーは18世紀にイギリス人探検家で船長のジェームズ・クックを案内してこの街にやってきた、やはりイギリス人探検家のジョージ・バンクーバーを記念した地名です。ビクトリアも同様で、よく知られているように、こちらは19世紀に64年間の長きにわたって英国の女王だったビクトリア女王の名前です。カナダの西部に英語の地名が多いのは、歴史的な理由があります。ケベック州やオンタリオ州に代表される東部カナダの方がヨーロッパ人の植民が早かったからです。初期にはフランスからの植民者がが先住民族(特にヒューロン族)と同盟関係を結んでいたこと。この二つから、当時既に先住民族の言葉で呼ばれていた地名がそのまま残ったのです。これに対して、西部カナダは開発が遅れ、既に英語系カナダ人の支配が定着した後でカナダ連邦に加わりましたので、支配者である英語系カナダ人は遠慮なくそれまでの先住民族の言葉の地名を英語に代えて行ったのです。それがいいことだったのか、いけないことだったのかは皆さんがご自分でお考えください。
カナダの地名に関して、私がちょっと悲しくなったエピソードをお話ししましょう。カナダ西部のロッキー山脈にある美しい湖の話です。「ロッキーの宝石」とも呼ばれるその湖の名前は「レイク•ルイーズ」、皆さんもきっと訪れたことがあるでしょう。ラヴァル大学の学生だった頃、私は二年続けて夏休みのアルバイトで日本人観光客相手の観光ガイドをしました。日本から来た多くのお客様を必ず連れて行ったのが、この「レイク•ルイーズ」です。ところが、後になって、元々は先住民族の言葉で呼ばれていたという事実を知りました。そして、その言葉の意味は「小さな魚のいる水」だったのです。ところが、この湖を(意図的にカッコつきの言葉にしていることをジェスチャーで示しながら)「発見した」白人によって、その名前が変えられてしまったのです。つまり改名ですね。では、ルイーズとは誰かと言うと、それはヴィクトリア女王の娘のルイーズ王女でした。その夫が当時、英国王室を代表する「カナダ総督」を勤めていたのです。
さて、皆さんにお聞きします。こうした改名、つまり地名の変更をどう思われますか。最初にあった先住民の言葉の意味が英語に翻訳されたのではありません。そこがどんな場所であるかを具体的に説明した地名が全く無視されて、英語系カナダ人によって一方的に人名に代えられたと言えるでしょう。私がこのエピソードを知って思い出したのは、長年にわたって、カナダの先住民の子供達を親から取り上げて寄宿舎のある学校に送り込み、生徒同士で母語で話したら罰を与えて、英語を無理矢理に教え込んだカナダの暗い歴史の一コマです。こうして今では殆どの先住民族が英語やフランス語の話者となり、先祖代々の言葉と文化は失われてしまったのです。今、カナダのジャスティン•トリュドー首相は「文化的大虐殺(Cultural genocide)」という強烈な言葉まで使って、必死になって先住民族の文化を復興させようと取り組んでいますが、失われたものはあまりに大きいと言わざるを得ません。
ある有名人がその土地の出身者であるからと言って、その人の名前を地名にすることが殆どないという点では、カナダの先住民も日本人も同様なのです。地名には山や海、川の名前も含まれます。富士山も琵琶湖も日本海も隅田川もそうです。これらはこれから何百年後も同じ名前で呼ばれることでしょう。
*TAO LABより
面白いですね〜違いが。
例えば下記も。
言語と思考と行為は繋がってますね、明らかに。
*金谷武洋先生について
カナダ・ケベック市のラヴァル大学へのご留学、アルジェリアで通訳としてガルガルダム建設工事プロジェクトでのご勤務、ドイツ・マールブルグ大学でのご留学、再びカナダに戻りRCI(カナダ放送協会国際局)でのご勤務などを経て、1987年よりモントリオール大学東アジア研究所で日本語をご教授。1989年より同研究所日本語科科長。現在、「リタイヤ生活を満喫しつつ」(ご自身談)文法研究・講演・執筆活動を展開されています。専門は言語類型論。本人によれば三上章の影響であるとしている、独特の「『主語』否定論」を広めている。日本語を日本の外から見続け、発言し続けてきた貴重な論客です。
◆主要著書
『主語を抹殺した男/評伝三上章』(講談社)
『日本語は敬語があって主語がない--「地上の視点」の日本文化論』(光文社新書)
『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)
『日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語 』(ちくま新書)
『日本語は亡びない』 (ちくま新書)
『英語にも主語はなかった--日本語文法から言語千年史へ』(講談社)
『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』(飛鳥新社)